さっきから携帯が鳴りっぱなしだ。

イヌノの名前と番号が、オレを責めるように震えている。

 あのバカ、電車からケータイ掛けるなっつーの。

着メロが鳴り終わるのを待って電源を切った。

バッテリーが切れたことにしておこう。バレバレの嘘だけどかまやしねえ。









オレの名前は新田勇。

『勇気ある』とか『勇ましい』とか、たぶんそんな親の願いとは無縁に育った。

初めてナンパされたのは中2の時。

パーカーにジーンズで渋谷を流していたら

「遊び行かない?」

と声掛けられた。

そいつはこちらがはいともいいえとも言わないうちに

「なんだ野郎かよ」と舌打ちして去っていった。

オレは帰ってお気に入りのリーバイスの膝をカッターで刻んだ。

それからはマニッシュで尖った服ばかり好んで着ている。

思えば他人の期待を裏切り通しの十数年で、それはこれからも変わらないだろう。










忘れ物をと受付に伝えると、ヒジリさんがまだ会議室にいることを教えられた。

夜のオフィスを制服姿でうろつくオレはほんと場違いだった。

切れ掛かってる蛍光灯。そういや、上の階がソッチ系とか言ってたけど本当なのかな。

なんかエロい声でも聞こえてこねえかなぁ。



「……しょうがねえだろ。こっちも取材なんだよ。

忙しいのはお互い様だ。仕事は持ち込まないと言ったのはそっちだろうが」



 代わりにエロくもないヒジリさんの声がした。

さっきの部屋の中からだ。携帯で誰かと話しているらしい。

扉を細く開くと中は真っ暗で、付けかけたブラインドと夜景を背に煙草を吸うヒジリさんが見えた。



「……誰だ!」



 やべ、見つかった。



「……お取り込み中ってヤツ?」



 決まり悪げに顔を覗かすと、ヒジリさんはちょっと待ってろと掌を向けた。



「……また連絡する。それじゃあな」



 女か?いや、男って場合もあるわけだ。この場合。

 意外とあっさり電話を切ったとこを見るとただの友人もアリか。



「勇、忘れもんか?ツレはどうした」

「先に帰った。オレだけじゃまずい?」

「いや」




 ヒジリさんはそれ以上突っ込まずに、ブラインドを付け直す作業に戻る。

 オレは灰皿まで近づいて煙を嗅いだ。蓋の開いたジッポーも脇にある。

 グレイ柄ってのがらしいっちゃあらしい。



「いい匂いだね。一本くれよ」

「餓鬼が粋がるな。脳細胞破壊するのは二十歳すぎてからで充分だ」

「ケチ」

「くれてやってもいいが、俺の目の前では吸うんじゃないぞ」



 オレはシカトして引っこ抜いた一本に火を点けた。

 ライターがぼうっと煙草の周りだけ一瞬照らす。

 肺まで吸い込んで、激しくむせかえる。



「……………………何コレ」



 うわ、オレ、カッコ悪い。



「知らないのに吸うな。ガラムは餓鬼にはキツイだろ」

「ちげぇよ。甘いから驚いただけだってば」

「なんでもいいけど何の用だ?煙草ねだりに戻ってきたわけじゃあるまい」



ヒジリさんは手を止めて、ようやくこっちを向いてくれた。

オレから煙草を取り上げて灰皿に押し当てる。

窓から差し込む街の明かりが、顔半分だけを照らしてる。

う。ちょっと機嫌悪い?やっぱさっきの電話のせいかね。



「あのさ、バイセクのヒジリさんに質問」

UFOはいるぞ。NASAが隠蔽しているだけだ」

「モルダーかあんたは。……そうじゃなくってさぁ。

あのさ、アレのことどう思う?今日のツレ」

「……表情の乏しいヤツだよな。ずっと睨まれてたせいでそう思うのかも知れんが。

 何考えているのかイマイチわからん」

「そお?わりとわかりやすいと思うんだけどな」

「そうかも知れんな」

「ホモに見える?」

「どうだか」



 ヒジリさんはニヤニヤ笑っている。ほっとけばはぐらかされるだけなんだろう。

 めんどくせぇな、ほんっと。



「――こないださ、助かったよ。ヒジリさんがいてくれて」

「こないだ?」

「代々木公園。

 もうさ、ぶっちゃけるけど、逃げ回ってたんだよ。オレ、あん時。

 ほっとくと今にも告られそうなイキオイでさぁ。

 今も東西線で襲われそうになって逃げてきたとこ。マジやばいって。

 どうなのよソレ。トモダチとして」



 返事がない。

 見ればヒジリさんは肩を震わせて笑っていた。



「あ、本気にしてねぇだろ。

 マジなんだって!テーソーの危機だぜ、オレ」

「いやぁ、悪ぃ悪ぃ。

 わざわざピンで戻ってきて、何を言い出すのかと思えば……

 まさかこの歳で高校生に恋愛相談受けるとはな」

「………悪かったよ、仕事の邪魔して」

「てっきり俺に会いに戻ってきたのかと思ったんだがな。

 アテが外れたか」

「自信家なんだな、ヒジリさん。

 も、いい。帰るわオレ」



 バツの悪くなったオレは踵を返した。言うんじゃなかった。

 煙草を持っていない方の手で肘を掴まれる。



「まぁ許せや。笑って悪かった。

 まだ直接言われたわけじゃないんだよな?」

「うん」

「嫌ならその時に断りゃいい話だ。

 逃げてばかりじゃ何も解決しないだろ」



 わかってねぇな、ヒジリさん。

 オヤジってすぐ耳障りのいい言葉ばっか使うんだよな。

 オレだって相談ごとなんかヤだけど、

 こんな話トモダチには言えないから。

 もう二度と会わないかもしんない相手のほうが話しやすい。



「でも、断るにしろオーケーするにしろ、

 もうさ、今までの関係取り戻せないだろ。

 断ったことも受けたことも後までついて回る。取り消せねえし。

 アイツほんっと頭悪いから、そういうとこわからねえんだよ。

 自分の気持ちしか見えてねえの」

「受け入れる可能性も入ってんだな」

「へ?」

「オーケーするにしろ、って」

「…………………」

「――代々木公園でおまえを見かけた時、

 てっきり恋人を待ってるもんだと思ったがな。

 いい表情だった。切ないような、待ち遠しいような」



 くそったれ。



「……見てたのかよ」

「本当に逃げ回ってるのなら、待たずに帰るはずだ」



 あの時ヒジリさんがいなかったらとか、考えることはある。

 千晶とすれ違って、イヌノを待ってた東口。

 仮定の話は意味がないけど、やっぱりそれでも、

オレはギリギリまで逃げ回っただろう。

 はぐらかせるうちははぐらかしてしまいたい。

 オレはあいつに負い目がある。

 追い詰められたら、その時はきっと逃げられない。



「――自信、ない。

 アイツのこと嫌いじゃないけど、オレ、男とつきあったことねぇし。

 つきあったらそのうちどうせヤんなきゃなんないし。

 それでやっぱりダメでした、っつったら、

 カワイソすぎるんじゃねえの?いくらなんでもさ」



 ヒジリさんは黙って煙草をふかしていた。

 間が怖くてオレはだらだら話し続ける。



「……よくわかんねぇよ。

 男が好きだとか女が好きだとか、つきあうとかつきあわねぇとか。

 トモダチじゃだめなもんかね。

 あんただったらなんかわかるかと思ったんだけど」

「――そういうのはな、年齢は関係ないからな。

 いくつになったって悩むヤツは悩む。

 ましてや15、6の餓鬼がわからないのは当然だ」



 真面目に返されると、今度はオレが照れ臭くなった。

 ヒジリさんの方を向いたら視線がかち合って、目を反らして笑った。

 部屋が暗くてよかったな、と思う。



「……まぁ、全部オレのカン違いなのかもしんないし。

 本当はアレかもな、祐子先生巡ってナシつけようと機会狙ってんのかも。

 まぁ、一人でなんとかしてみるわ。自分の問題だしな」



 ヒジリさんがぎゅっと煙草をもみ消した。



「勇」

「ん?」

「そんなに人の顔色見てばっかだと疲れるだろ」



 そう言ってオレの頭をぽんぽんと叩く。

 普段だったら即効振り払うところだけど、その言葉がしみじみとオレに響いた。

 そんなこと言ってくれたのはヒジリさんが初めてだった。

 ズルいよな。

 2、3回会っただけなのに、オレのこと見透かしたような言葉吐いてくれちゃって。



「………サンキュ」

「自信が無い、っていうのなら方法はある」

「……なんだよ」

「男と寝てみるんだな。あの坊主とつきあう前に。

 それで駄目ならやめとけ。悪いことは言わん」

「たとえば?あんたと?」

「そう、俺と」



 ヤバイな、と思うより早く窓に押しつけられてた。

 顎を掴まれて唇が触れる。煙草の甘い匂いがした。



 逃れても手首を掴まれた。

 舌が割り込んできてあちこちをなぶる。

 キスの激しさに息ができない。

やり場の無い舌を震わすと、股に膝が押し付けられた。

その足がなきゃ、オレはとっくに崩れてただろう。













腕が緩んだ瞬間に、全力でヒジリさんを突き飛ばした。

ショルダーバッグを抱えて逃げ出す。

振り返ることも、毒づくことすらオレはできなかった。

受付を駆け抜け、すれ違う人とぶつかり、アヤカシ編集部のビルから離れ、

神楽坂の駅が見えてようやくオレは息をついた。

 ペットボトルの最後の水を、口に含んで街路樹に吐き出す。

 あんま嫌じゃなかった自分が気持ち悪い。

 朝聞いた女子の会話が脳裏を掠める。














 どうでもいいけど、外から丸見えだったんじゃないか?


























 
帰りの電車の中で、ほっといたケータイの電源を入れてみた。

メールが5件、全部イヌノからだ。




『交通費、もらえた?』



 忘れたよ。



『今どこにいるの』



 電車。



『家、帰れた?』



 うぜぇなぁ。ほんっと、うぜぇ。

 放り出したオレに、せめて恨み言でも言ってくれりゃいいのに。



『今、何やってるの』




「……ほんとに、何やってんだろうな。オレ」















 最後のメールはついさっき送られたばかりで、




『いっぱいメール送ってごめん。また明日』













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