「ああもう千晶!ゆっくり死なせてくれよ!」


「あ、起きた」








 気がついた時には病院のベッドの上で寝ていた。

 目を開いても、そこには千晶の顔。









 なんだ?

 千晶が起こしてくれるって、どんな世界なんだここは。



 おれは目をしばたいた。

 状況が把握できない。なんだっけ。

 何かとても大切なことが途中だった気が……。

 ええっと……。


























 …………………思い出した。









「受胎だ」












 上半身を起こし、ほとんど反射的に自分の手を見る。

 
悪魔の印、紋様は……無い。

 
何も変わらない人間の手がそこにあった。



「ち、千晶!受胎はどうなったんだ?

 創世は!?

 もしかして……ヨスガ当主としておれを消しに!!


 くそっ!蝿にされてたまるか!」

「ちょ、ちょっと……肩掴まないでくれる?」

「マカラカーンマカラカーン!!」

「どうしましたー?」






 サイドのカーテンが開き、看護婦さんが顔を出した。

 思念体じゃない。れっきとした人間だ。








「あ、小林さん。目が覚めたんですねー」

「受胎を生き残った人間が他にもいたのか……。

 さてはあなたもカグツチに選ばれた看護婦」


「すみません、ちょっと打ち所が悪かったみたいで。

 
混乱してるみたいです」

「あら……それは……。

 あとで脳波の検査もしておきましょうね。

 先生、すぐに来ますから」



 おれを気の毒そうに一瞥し、看護婦は忙しそうに去っていった。







 わからん。

 
マネカタなのだろうか。震えてないけど。












「……ったく、ちゃんと千晶にお礼言えよ。

 わざわざ届けに来てくれたんだから」







 ………勇。

 病室の入り口に背を預け、勇が帽子の角度をしきりに気にしている。

 何が起こったのか把握できないけど、とにかく勇がそこにいた。











「よかった……。

 無事だったのか……」










 おれが安堵のため息をつくと、きっとこちらに向き直り、

 つかつかと歩み寄って胸倉を掴んできた。








「いい加減にしろこのバカッ!!

 オマエな、自分の限界くらい自分で把握しとけッ!

 
マラソンで死ぬヤツだっているんだからな。

 
メシも食わずに駆けずり回ってりゃひっくり返るに決まってんだろ!」








 あれ、おれなんで怒られてるんだ。

 ここは互いの無事を祝って抱き合うとこじゃないのか?

 そりゃあ飲まず食わずで走ってきたけど、

 しかたないだろ、受胎起こすってときにそんな悠長な。








「ここ……どこだ?」

「衛生病院に決まってるだろーが。

 救急外来に担ぎ込まれたんだぜ」

「え?なんで?」

「オマエがぶっ倒れたからに決まってんだろ!

 こんな病院の目と鼻の先で、ストレッチャーで運んでもらってさ、

 
恥かしいのなんのって……ああもう……。




 ………まぁいいや」







 寝台の上におれを突き放し、勇はうなじを掻きながらそっぽを向いた。

 千晶は呆れ顔だ。







「ごはん食べてないの?」

「低血糖。

 医者が血見て笑ってたよ。こりゃひっくり返るって」

「ほんとバカね」







 肘の内側、静脈のとこに採決の跡があった。

 手の甲に貼ってあるバンソウコは、点滴か何かの痕跡だろう。









 衛生病院は慌しい。

 いつぞやみたいな無人ではなく、あちこちでナースコールが鳴り、

 廊下を誰かが急ぐ足音が聞こえてくる。










「……悪かったな千晶。

 こんなヤツのために保険証持ってこさせて」

「しょうがないわ。こんなんでも幼馴染みだもの」

「受胎は……?」

「あ、おばさま後で来るって

 最近勇くん来ないわねって淋しがってたわよ」

「ハハ、相変わらずノンキだよな。

 
イヌノの母ちゃんによろしく言っといてよ。

 オレ、電車あるうちに帰るわ」

「じゅた……」

「あんたもちゃんと学校来なさいよ」

「へえへえ」







 千晶と勇はおれを放置して二人で盛り上がっている。

 勇を引き止めようと再び体を起こし、おれは枕元に置かれていたモモ缶を落とした。








「……なんで缶詰が?」

「あ、それお見舞いだって。正確にはおすそ分け?

 なんか偶然来てたらしいんだわ。ビックリしたよオレ」

「え。誰が?」

「……えーと」






 勇が言葉を濁している間に、ガラガラと派手な音が廊下側から近づいてきた。

 よろよろと入り口に指を掛けたのは、病院の寝巻き姿の氷川さんだった。

 車輪のついた点滴掛けを支えに、スリッパのままここまで来たらしい。

 ぽたりぽたりと黄色い液体が、左腕に刺さった管に絶え間なく落ちている。








「……大丈夫かね?」

「……いや、それは氷川さんこそ……。

 どうしたんですか?」

「君が……運び込まれたと見舞い客に聞いてだな」

そうじゃなくて……点滴とか……」

「これは――。

 胃潰瘍が悪化して……いささか検査中なのだよ。

 大したことはない」









 そういう氷川さんはいつもよりさらに顔色が悪い。

 普段は丁寧にセットされた髪も寝乱れていた。






「ああ……氷川さんらしいというか……、

 大変っすね……」

「知っているかね。

 『地面の底に顔があらはれ。

 淋しい病人の顔があらはれ』

「やめてください。怖いから」





 千晶と勇が誰?という顔でふらふらの氷川さんを見つめている。

 視線に気付いた氷川さんは、寝巻きの袂に手を突っ込み、





「すまない。名刺を切らしているようだ」



 と俯いて勇の靴を見ていた。



「あ、こちらサイバース社の氷川さん。

 おれのバイト先のお偉いさんで、いつも世話になってるんだ」








 下半身まで世話をかけたことはさすがに黙っておこう。

 勇も慌てて頭を下げた。

 帽子を降ろす、ってとこまでは頭が回らないらしい。



「あ、ども。こんばんわー」

「初めまして、橘です。

 
ご高名は存じておりますわ」

「え?千晶の知り合い?」

「バカね。

 あんたと違って経済誌くらい目を通してるの、わたしは」

「オレもケータイ使ってるぜ。

『ケータイ買うならサイバース!……ってね」

「まったくもう……調子いいんだから」

「……ふむ」







 ヨスガとシジマとムスビがおれを取り囲んで歓談している。



 なんだこりゃ。












 ――結局、受胎は起きたのか?

 何も起こらなかったのか?

 寝惚けた頭がまだうまく回らない。







 あるいは、すべてが終わって再生した世界なのだろうか。ここは。









「あの……東京受」

「ギャハハハハハ!マジっすか!

 コイツ、さっさとクビにしたほうがいいよ」

「ちょっと勇くん、ここ病院よ」







 おれのか細い声は勇のけたたましい笑い声にかき消され、一人淋しく枕にのの字を書く。



 ………腹減った。

 
モモ缶開けようかなぁ。

 あ、缶切りねえや。








「……まぁ、その……大したことがなくてよかった。

 では、私はこれで失礼する。

 どうやら点滴も終わったようだ……」

「早く退院できるといいですわね」

「うむ……そうありたいものだ……」






 氷川さんは点滴台を引きずり引きずり、胃の辺りを押さえて病室を出て行った。

 本当におれの顔を見に来ただけらしい。

 ……相変わらず難儀な人だ。







「……オレもいい加減帰るわ。

 じゃあなイヌノ、ゆっくり休むんだぞ」

「あ、待てよ勇」



 勇を引きとめようとするおれを、千晶が制した。



「帰らせてあげなさいよ。

 
勇くん、気張ってて疲れてるのよ。

 わたしに電話寄越した時涙声だったもの。

『オレの蹴りがとどめだ。あいつが死んだらオレのせいだッ!』

 って」

「ち、千晶!

 余計なことしゃべんなくていーから!」

「じゃあね、勇くん」

「……ったく。

 電車、復興したかなぁ」






 勇はちらと視線を寄越し、しきりに帽子を直しながら部屋を出て行った。

 ご自慢のキャスケットはよれよれだ。

 おれが握り締めていた跡がくっきりついている。











「……勇くん、わたしが来たときね、

 ゲロまみれの君をずっと拭いてたの」

「…………」

「終わるまでわたし近寄らなかったわ。

ばっちいし」

「……ああ、千晶らしいな………」

「お医者様は大丈夫だって言ってたのに、君が目覚めるまでずっと覗き込んでいたのよ。

 気がつきそうになったら今度は慌てて逃げて」

「………悪かったな、千晶。

 心配かけて」





 あと、ナイショだけど見殺しにしようとしてて。







「心配はしてないけど、迷惑は掛けられたわね。


 ま、何があったのか知らないけど。


 君にしてはよくやったほうじゃないの?」



 俯いた顔を上げると、千晶は今まで一度しか見たことのないような、

 いい笑顔を浮かべておれを見下ろしていた。






「おめでとう」














 ………なんで?























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