甲州街道を新宿まで。
向かい風は夏の終わりを告げて冷たい。
夜に浮かび上がる、新都庁の赤い光をおれは目指した。
聳え立つビル郡はほんの近くに見えるのに、走っても走っても距離が縮まらない。
いや、本当は近づいているんだ。
だからおれは走る。
「………どうして……」
勇も引っ張られて顎を出しながら、必死でついていた。
「しゃべんな。消耗すっから」
「………どうして……諦めねぇんだよ………」
「『可能性のあるほうに行く』」
赤信号で足を止められ、隙を縫って飛び出す。
怒り狂ったクラクションに追い立てられて勇が首を竦める。
おれも笑った。
時間は全然足りなくて、肺は空気を求めてひりついていたけど、なんだか楽しかった。
勇の手を引いて走れる幸福感が、酸素不足の頭を満たしていた。
「お前が言ったんだ。勇」
「…………………憶えてない」
「おれは憶えてる。
おれたち以外の人間がいなくて、どこへ行っても悪魔だらけで、
何の救いも見えない世界で、でも、お前がそう言ったんだ。
――あん時の勇、カッコよかったなぁ」
恋に落ちたのはあの時かもしれない。
「……………」
「途方に暮れたとき、あの言葉を思い出した。
勇が諦めなかったからおれも諦めない。
どこに行けばいいのかわからなくなる度に言い聞かせてた。
可能性を探して走った」
「………でもオレは」
「……おれたちの可能性は違ったかもしれないけど、
でも、おれは、あの一言があるからやってこれた。
先生も千晶も勇も死んでも、絶望しないで済んだ。
新しい世界におれは賭けた。
それが結果、勇を苦しめることになったかもしれない。
それなら、おれはまた新しい可能性を見つけてみせる。
――だから、お前ももう一度這い上がってみせてくれ。
もう一度だけ絶望から這い上がってくれよ」
「……………」
「勇、泣いてんのか」
「………泣いてねぇ……」
「……そっか」
振り返る余裕はなかったからそのまま走って、走って、道行く人を縫って走って、
心臓と肺が痛い。勇に蹴られた背中も。
でももう少しだ。58分。あと2分。
真っ黒な木々が生える中央公園が見えた。
都庁もすぐそこだ。ここを真っ直ぐ抜ければ新宿衛生病院に着く。
信号を渡ったところで腕が重くなった。勇が膝をついていた。
「大丈夫か?」
「…………わりぃ……無理だわ……。もう走れね……」
「だから煙草やめろって言ったんだよ」
「……一人で……」
ワシントンホテルの塀に背を預け、荒い息をつく勇は本当に苦しそうだ。
立膝になり、勇に背を向けておぶされと言うと、弱々しくかぶりを振る。
「……いいから……行け……。
…………もうわかったから………もう……」
「あと少しだろ! 諦めてたまるかよ!!」
「……………」
キャスケットの影、唇が微かに『ありがとう』の形に動いた気がした。
見なかったことにして、おれは勇を肩に担ぎ上げる。
礼なんか言われてたまるか。
お前が生きなきゃ意味が無い。
「……降ろせよ!」
「暴れんな!」
さすがに重い。足腰に来る。ふらふらとおれは走る。走ってるつもりで歩いた。
降ろすもんか。
世界が終わるんだ。
絶対、離さない。
たとえ勇がだめになったとしても、おれは勇を見捨てたくなかった。
勇のための憤りも悲しみも切なさも、すべての感情を捨てたくなかった。
次の世界も勇と一緒にいたかった。
これは恋だ。
お前のそれに比べて、おれの恋など拙いものかもしれない。
劣情かもしれない。
同情かもしれない。
だけどこれは恋だ。
自分以外の誰かをこんなにも想う理に、他につける名前が見当たらない。
その煩わしさもいとおしさも全部ひっくるめ、
おれはおれの恋を抱えて走った。
橋上の道で、すれ違う人がぎょっとしたようにおれたちを見る。
強いビル風に煽られてひっくり返りそうになる。
帽子を押さえ、もがく勇の膝が鳩尾を打つ。
呼吸が崩れて肺は爆発しそうだ。人間の身を今ほど恨んだことは無い。
都庁の横を通り過ぎ、中央公園を抜け、最後の信号。
一瞬足を停めたのがまずかったのか、横断歩道をふらふら渡りきったところでおれは倒れた。
ケガしないように勇を庇い、国際ビルの植え込みに肩から突っ込み、そのまま吐いた。
心臓か肺かわかんねえけど胸が痛い。
時計を見ようとしたけど、もう腕が持ち上がらない。
勇がおれを揺すって何か叫んでる。
担いでいる間、やけにおとなしいと思ったら、
ああ――泣いてたんだな。
目が真っ赤だ。
バカだなぁ、勇。泣くこたねえだろ。
バカはおれか。
もう衛生病院は目と鼻の先なのに。
あと10メートルかそこらだろ。
勇を守ってみせるって粋がってたのに。
「………………けよ」
もう動けるだろ、行けよ。
と言ったつもりだけど声が出ない。
自分のゲロにまみれながら親指で病院を指し示した。
おれは最後までかっこ悪いなぁ。
いいとこ無しだ。
ごめんな、勇。
本当にごめん。
結局、死ぬより怖い世界にお前を一人で送り出さなきゃいけないみたいだ。
不甲斐ないおれを許してほしい。
そんな不安そうな顔するなよ。きっとうまく行くさ。
勇は一瞬躊躇ってから、思いつめた顔で病院に向かい駆け出した。
走り出した拍子に帽子が落ちる。
おれは震える指を伸ばしてそれを拾い上げた。
そうだ、それでいい。
時間が無いんだ。振り返るんじゃねえぞ。
何事かとおれを覗き込むギャラリーの向こうで視界が歪む。
神さま――と呟いたとたんに、かつての仲魔たちの顔が具体的に浮かんでしまった。
シヴァ、パールバディ、ミトラ、アマテラス、アタバク、ラクシュミ、ビシャモンテン……
キリがない。
誰でもいい、どうか勇を助けてやってくれ。
憎まれ口ばかり叩いて、ひねくれちゃいるけど、
勇はそんなに悪いヤツじゃない。
おれの大切な人なんだ。
頼むよ。頼む……。
たった一人で世界に立ち向かう勇を思いながら、おれはゆっくり目を閉じた。
世界が終わる。
思念体になったらまた勇に会えるだろうか。
この街の、どこかで。
東 京 ラ バ ー ズ
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