※
「……イヌノ」
「なに?」
「手、手ぇ離せ」
「……そしたら、勇逃げんだろ」
「逃げねえよ、もう。
握られっぱで痛いってば」
「………絶対逃げない?」
「逃げない」
「絶対だな」
「命賭けっから」
「……わかった」
珍しくしおらしい声を出す勇にほだされ、おれは掴んでいた右手を解放する。
途端に勇はにやりと笑って逃げ出した。慌てて後を追うおれ。
「おい!待てよ勇ッ!!
お前の命ずいぶん軽いじゃねえか!!」
「ハッハッハ。
二度死んだ男を舐めるんじゃねー!」
「ちっくしょう!
東京中走り回ったおれの脚力を舐めるなよッ!!」
「あっ!」
駅構内をちょこまかと逃げ回る勇を、ほとんどタックルしてとっ捕まえる。
「……わかったわかった、もう逃げないから」
「本当だな」
「だから手ぇ離せ」
(※ 以降、繰り返し)
振り替え輸送の客がごった返す明大前の駅で、
アホな捕獲劇を4回ほどリピートしたところで勇がバテた。
「疲れた……」
「勇のバカっ!
ただでさえ時間ねぇのにどうすんだよ!」
「ハハ……騙されるのが悪いんだよ」
人身事故と追いかけっこに振り回されて7時38分。
新線復旧のめどはまだつかない。
ここからJR渋谷経由で新宿に出るには30分は掛かる。
西口から出て衛生病院まで結構な距離もあるし。
おれは勇の手を握ったまま、さっぱり動かない行列を前に途方に暮れた。
「……間に合わねぇかも」
どっかで勇がまたごねたらアウトだ。
何度か祐子先生に連絡入れたけど、出ねぇし。
さんざん念押されたもんなぁ。
『受胎に取り掛かったらもう止められないのよ。
後で後悔しても知らないわよ。
それでもいいの?』
『いいです』
『本当に?』
『本当です』
『本当に?』
『しつこいなぁ!』
「もう諦めれば?」
勇はキオスクの前でへたりこんだまま、何が楽しいのか笑っている。
「諦めてここで一緒に死のうぜ。
オレはそれでもいいよ」
「やだ」
ええい迷ってるヒマはねぇ。
オレは勇を引きずり引きずり、ごった返す改札口から外に出た。
「……どこ行くんだよ」
「タクる。
渋谷経由で出るより距離的にも近い。
心配すんな、あの辺の地図なら頭入ってる。東京中駈けずり回ったから」
東京がまだ丸かったらなぁ。もうちょっとショートカットできるんだけど。
「心配なんかしてねぇ。帰る」
「うるせえ」
通りに出て車捕まえるまでの三分が長かったこと。
抗う勇をタクシーに押し込め、おれはようやく安堵できた。
いくらコイツだって、走る車から飛び降りるような真似はしないだろう。
あとは衛生病院に着くのを待つだけだ。
勇もようやく観念してくれたのか、ふてくされて窓の外を眺めている。
握ったままの手を間に置き、おれもへたれてシートに沈んでいた。
「受胎さぁ」
黙りこんでいた勇が、そっぽ向いたまま口を開く。
「何?」
「起こして、オマエはどうすんだよ。
一緒にムスビやんの?」
「いや、それはちょっと……」
「まぁ、わからんよな。オマエには」
わかんねぇのは勇だよ!
童貞のまま他人と不可侵の世界に飛び込めるわけねぇだろ!
……と、反論したかったけどさすがにみっともなくて言えない。
「結局、同じことの繰り返しかよ」
「あのさ、勇。
もちょっと考えようぜ。二人で」
「…………」
「ゆっくり考えよう。
勇の望む世界と、おれの望む世界と、取れる間がどっかにあるかもしれねぇし。
それでダメでも」
「……なんか誤解してるけどさぁ、
オレ別にヒジリさんとやり直したいとか、そういうんじゃねえから」
「へ?」
「何度やり直しても無駄だよ。
あいつとは何度出会っても喰らい合いになる。
――たぶん、似すぎてるんだ」
似てるかぁ?ヒゲも生えてねぇのに。
「ダメなんだろうな。オレがオレである限り」
「ごめん。高度すぎてよくわかんねぇ」
「………オマエは頭が悪いからなぁ」
「勇は結局、ヒジリさんのこと好きなのか?嫌いなのか?」
勇は答えなかった。
相変わらず勇の考えてることはさっぱりわからない。
でもそれをあれこれ想像して悩むのはもうやめた。
そんなことより、今は――
「……なぁ、勇」
「…………」
「なんか、車止まってねぇ?」
「……オレも同じこと考えてた」
車窓を開けて首を出す。
甲州街道と山手通りの交差点より向こう、びっしりと乗用車の赤いランプが並んでいた。
信号が変わるたびに動いちゃいるが、えらい混みようなのは間違いない。
さっき追い越した自転車がまたタクシーを追い越している。
運転手さんに叱られて、おれは青い顔を乗せた首を引っ込めた。
「………混んでんな」
「ま、こんなもんだろ」
勇にせせら笑われて、おれはようやっと東京の交通事情に思い至る。
ここはもう見渡す限りの廃墟じゃない。
信号は守らなきゃいけないし、何より人も車も多すぎる。
切羽詰ったときほど判断能力が著しく低下するものなんだなぁ。
しみじみしてる場合じゃねえ。
腕時計を見た。デジタル表示が7時53分。
……この速度じゃぜってぇ間に合わない。
祐子先生の携帯に電話する。繋がらない。
何の呪いなんだこれは。
「――あと7分か。
どうすんの?車の中でいいのか?
もう諦めてさぁ、オマエ、コンビニでアイス買ってこいよ。
食い終わらねぇかもしれないけど、最期に食うならアレかなぁ。
ハーゲンダッツのアーモンドチョコバー」
「すみません!ここでいいです!!
停めてくださいッ!!お釣り要らねえから!」
40円足りないと言われ、小銭を投げつけ、舌打ちする運転手に追い出される。
片手しか使えないもんだから財布を出すのもしまうのも一苦労だ。時間ばかり過ぎる。
「……ホモって思われたかなぁ。思われるよなぁ」
「そんなこと言ってる場合じゃねえだろ!」
「お、ファミマはっけーん」
「また今度な!走るぞ!!」
コンビニに入ろうとする勇を引っ張り、一歩踏み出したところで背中を思いっきり蹴られた。
体重をカカトに掛けた本気のケンカ蹴り。
海老反ってぶっ倒れて、それでも手を離さなかったので、
勇の身体ごと国立劇場の植え込みに突っ込んだ。
「……いい加減にしろよ」
キャスケットを直しながら勇が先に立ち上がる。
おれは地面の上に這い蹲り、呼吸を整えるのにまだ必死だ。
いてぇ。
背中がきしむ。吐きそうだ。
引き伸ばされた肩もガタガタだ。
「必死に動けば相手の気持ちが動くと思ったら大間違いなんだよ!
みんなそれぞれの考えがあって生きてんだ!
テメェの考えばっか押し付けてんじゃねえよッ!!」
ノアにツノビームを発射されたことがあっても、勇がケンカしてるとこは見たことがない。
その勇が他人に手を上げるってことは本気で怒ってるんだろう。
「……そんなこ……」
そんなことはわかってる、と言おうとして咳き込んだ。
二人で手繋いで、アイス舐めながらビルが崩れるのを見上げる終末。
それも悪くないかもしれない。
違う。そうじゃない。
「……でも……アイス舐めながら死ぬのが……本当に勇の望みなのかよ……?」
蹴られた拍子に口の中を切ったらしい。
血の混じった唾を吐き、おれは脇を押さえて立ち上がる。
立ち上がれるなら大丈夫だ。まだ走れる。
「おれのことが気に食わねぇんなら、あとで気が済むまでいくらでもボコらせてやっから。
今だけは言うこと聞いてくれよ……なぁ、頼むよ」
蹴り飛ばした勇のほうがなんだか泣きそうだった。
俯いた表情は帽子で見えないけど、おれにはわかる。
「オレのことなんてどうでもいいから………行けよ。
オマエ一人の足ならまだ間に合う。オレ連れてたら無理だ」
「やだ」
おれたちは走り出した。
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