ようやくインターホンが鳴り止んで、オレは枕に押し付けていた耳を離した。







 携帯の電源は切りっぱなしで、家の電話のモジュラーは引っこ抜いて、

 これでようやく諦めてくれたのかとほっとする。

 親のいない夕方だからいいようなものの、

 
ご近所に通報されたら間違いなくストーカー扱いだな。







 確かめたわけじゃないけど、しつこくチャイムを鳴らし続けていたのはたぶんイヌノだ。

 昨日打ちのめされたばかりなのに、まだ何か言いたいことでもあるんだろうか。

 どんな言い訳も謝罪も聞きたくない。







 わかってる。イヌノは悪くないんだ。

 オレは殺されたんじゃない。世界のためにアイツを犠牲にしようとしたのはオレのほうだ。

 だから謝る必要も、あいつが負い目を感じることもなにもない。

 ただそっとしておいてほしい。オレは何もしたくない。

 誰にも会いたくはない。



 どんな願いも叶わなかった世界で、これがオレにできる唯一の抗いだ。







無力な戦いなんだ。








 寝疲れて痛む背中をベッドから起こし、シーツを引きずってと床に蹲る。

 爪先がベッドの下に隠したエロ本に触れた。

 先生と同じ髪型という理由だけでずいぶんお世話になったモデルが、

 先生よりはずっと優しい笑みを相変わらずオレに向けている。







 もう、何の感慨も浮かばない。

 ページをめくると右手の傷が引き攣れた。



 ヒジリさんのことを思い出す。

 思い出すなんて嘘だ。

 ずっと考えていた。


 始めに出会って、あの人を殺すまでのことを繰り返し反芻している。



 そうだ最初から知っていた。

 あの男がずるく、弱く、どんな期待にも応えられない人だとオレは知っていた。

 でも悪い人じゃなかった。

 狡猾で臆病だけど悪い人じゃなかった。

 それを知っただけでもよかった。

 だからもういい。

 あの男にかける呪いも、願いも、オレはすでに与え終えた。

 その罰も受けた。


 それらは予め終わっていた。すべてのことが。






























                    東         京          ラ          バ          ー           ズ

















 秋の入り口まで差し掛かり、日が落ちるのが早い。

 窓の外にはもう夕闇が佇んでいる。






 イヌノは――もう諦めて帰ったんだろうか。

 本当にあいつだったのか?

 しつこくオレに呼びかけるものが、あいつであればいいと思っているだけなんだろうか。





 膝を抱えて窓を眺めていたら、何かの影が垂直に落ちていくのが見えた。

 そして派手に割れる音。

 猫じゃない。

 ここは6階だし。

 カラスか何かが、




「やっべぇ!」



 カラスじゃない。

 カラスはしゃべらない。

 聞き覚えのある声でやっべぇとか言わない。




「勇ぅ〜〜……開けてくれぇ」



 開けたくない。窓には鍵が掛かってるし。

 おい、待てよ。6階なんだぜ?

 躊躇しているうちに、窓を叩くシルエットが下に滑り落ちるのが見えた。

 ビルの窓拭きコントを影絵で見ているみたいだ。



……バッ……バカッ!

 お、おいイヌノッ!!何やってんだよ!」



 慌てて窓を開けると、出窓の珊にイヌノが辛うじて手を引っ掛けているのが見えた。

 その下の地面が遠い。見慣れた景色だけどくらくらする。

 イヌノは青い顔に愛想笑いを浮かべる。



「……わ、わりぃ。勇、ちょっと腕引っ張ってくれない?」








 ――半ば落ちかけている陸上部。と、帰宅部。

 脂汗で何度も滑り落としそうになりながら、(落としてもよかったんだけど)

 ようやく部屋まで引き上げた頃には二人とも顔面蒼白だった。








「お邪魔しま……す、っと」



 転がり込む寸前に、イヌノは律儀に運動靴を脱ぐ。

 靴の泥を窓の外で叩いて下を覗き込んでしょんぼりしている。



「上の階のプランターさぁ、うっかり落としちゃって。

 留守だったから今度謝りに行かなきゃ」

「ってかよぉ!

 オマエ、どうやってここに!

 まさか……よじ登ってきたのか!?」

「ははは、んなワケねぇだろ。

 ここまで登るのさすがに無理だからさ、いっぺん屋上まで出て下ってきたんだ。

 助かったよ6階で。3階とか4階だと、登るのにも下るのにも中途半端だし」

「ていうか!!死ぬから

 開けてやったからいいようなものの、オレがいなかったり開けなかったりしたら

 死ぬとこだったんだぞ!わかってんのか!?」

「平気平気。おれもっと高いとこから飛び降りたことあるから」

「悪魔の頃の話じゃねえか……」

「歯をくいしばってれば死なない!」

「死ななくないッ!」

「スタイリッシュに飛び降りたらケガしねえから!」

「オマエはこれっぽっちもスタイリッシュじゃねぇッッ!!」









 だめだ。



 しつこい奴だと知ってたけど、これはいくらなんでもやりすぎだ。

 怯えるオレと裏腹に、イヌノは顔を赤らめ「……部屋着の勇、初めて見たな」と喜んでいる。

 本格的に頭がおかしい



「わかったからさっさと出てけ!

 友達だからってやっていいことと悪いことがあるだろうが!!」

「…………ありがとう」

「はぁッ!?」

「おれを……まだ友達と思ってくれるんだな」

「………過去形にしとく」



 イヌノは腕時計をちらと見、



「急ごうぜ。8時にはまだ余裕あるけど、早いに越したことはない」



 勝手なことをほざいている。



「知らねぇよ。帰ってくれよ」

「覚えてるんなら話が早い。

 勇、聞いてくれ。新宿衛生病院で祐子先生が待ってる」

「だからもうオレには関係ねぇって」

「8時ジャストだ。もう一度起こす。

 一秒でも遅れたら弾かれるって祐子先生が言ってた」

「…………」



 ……何言ってんだこいつ。

 まさか。



「……受胎か?」

「うん」

「……創った世界が気に食わないから、壊して創りなおすってのか。

 ありえねぇよ。一体どれだけ犠牲を築いたと思ってんだ?

 
一人でやってろ。オレには関係ない」

「ヒジリさんと」



 バカに構わずベッドに逃げ込もうとしたオレは、イヌノのほとんど悲痛な声に体が強張る。



「――やり直させてやるから。

 
それで勇が幸せになれるんなら、世界を創り直してもう一度やり直せばいい。

 大丈夫、今度はうまくいくから。おれがついてる。大丈夫だから」

「…………」

「それとも――どうしてもこの世界が気に食わないって言うなら、

 もう一度創世してみればいい。勇がもっと辛くない世界に。

 どちらに転んでお前に悪い話じゃない。

 なぁ?行こうぜ。――勇」









 そう言って、帽子掛けからキャスケットを一つ取り、イヌノはオレの頭に載せた。




「なんでオマエは……いつもいつもオレの邪魔ばっかするんだよ……」






 必死で掻き集め積み上げたオレだけの脆弱な城、

 オレを守るためのオレだけの居場所は、こいつに、

 いつもいつも打ち崩される。

 何度振り払っても差し出される、強くて残酷で少し汗ばんだ掌。





















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