東京ラバーズ

















「終電までには帰れよ、勇」

「何? 結局、ヨリ戻ったわけ?」

「仕事だ」

「香水臭ぇんだよ。わざとだろ、それって」

「………戻るかどうかは、まだわからんよ」



 意外と早かったな、と言いながらオレは制服のズボンを履く。

 結局シワになっちまった。

 ヒジリさんは時計を気にしながら、下着姿でベッドに腰掛け煙草を吸っている。



「まぁ、よかったんじゃねえの?

 これでオレもお役御免ってわけだ」

「役目?」

「あんたの子守さ」



 ワイシャツのボタンを二つ留めただけで面倒になり、

仕事用の椅子に座って脚を組んだ。

 デスクの上は長鋏と英字新聞の切り抜きで埋まっている。

 意味のわからない言葉と写真のジャンク。



「――ああ。

色々と世話になったな、勇。

 まぁ、また何かあったら呼んでくれ。俺にできることはするぜ」

「ハハハ……あんたらしいな」



 瞼を押さえてオレは笑った。

 腹の底から笑った。

窒息寸前まで笑い続け、それから鋏を握った。













「ふざけんじゃねえ。

 オレのことコケにしやがって、ぶっ殺してやる」














スクラップ記事が床に散る。

開いた刃を喉元に突きつけられ、ヒジリさんはうんざり顔で灰を落とした。



「好きにすればいいさ。

 それでお前の気が済むならな」

「好きにするさ」

「狙うなら喉仏の後ろだ。

そんなナマクラ鋏で切れる命はそこくらいだろう」

「……オレにできないと思ってるのか?」

「――ちょうどお前くらいのガキがな、この国の総理大臣に聞いたんだ。



『なんで人を殺しちゃいけないんですか?』



 ……とな。

 まったく子供って奴は面白い質問をしやがる。

 可哀想に、首相はまともに答えられなかった。



 なぁ、お前も答えが知りたいか?

 俺が教えてやろうか」



 煙草の煙を吹きかけられ、オレは眉をしかめた。

 乗り出した首に刃の先端が食い込む。












「殺ってみろ、勇。

 そうすれば社会がお前を殺すだろう」






                   







 点、

点、

点、とシーツに落ちる赤い染み。

不恰好なドットを見ても、オレは何の感慨も沸いてこなかった。

刃が離れた首筋をヒジリさんが撫でる。

 開いた鋏を握り締め過ぎて、破れたのはオレの指のほうだ。










「…………ナマクラじゃねえよ……これ……」









 フローリングに鋏が落ちて、

 傷をつけちまったかなぁ、敷金。

 とか、この期に及んでそんなことしか頭に浮かばない。



 人差し指の第二節と掌、赤く穴が割れていた。

 じくじく血が滲むそこに痛みはない。

 あまりに痛まないので、





「いてぇ」






 と呟いた。







「お前はどうしたかった?」



 傷を見ないようにヒジリさんが尋ねる。



「別に」



 何か言葉はあったような気がしたけど、

 それらは今や床に散らばった切り抜きのように無意味なものに思えた。

 目の前の男ももう苛立ちを隠そうともしない。



「言いたいことぐらい言え。

 人の顔色ばかり伺いやがって」

「オレのことなんてどうでもいいだろ。

 あんただってまともに聞く気なんかねぇし」

「勇、甘えるのも大概にしろよ」

「甘える? オレが?」

「お前みたいな餓鬼はいくらでもいるんだぜ。

 他人との距離感が掴めなくて100かゼロかの付き合いばかり求める。

 そのくせ痛がりで少しでも否定されるのが怖くてしかたない」

「わかったような口利くんじゃねぇ!」

「お前の性格なんざ一度寝りゃわかるさ。

だがな、だからって俺に寄りかかるな。

 大人にはな、お前みたいな餓鬼乗っからせる余分なスペースなんてありゃしねぇんだ」

「利用したのはあんたのほうだろ」

「ならばなぜ俺のとこに来た。

 嫌なら来なきゃいいだけの話だ」







 オレは立ちつくして、うな垂れて、みじめったらしくしょぼくれて、

 聞きたくもない話を聞きながら、

 ヒジリさんのいつものすり替えを聞いていた。



 全部をオレに押し付けて、自分が責任を被ることを何一つ避けている。

傍観者でい続けることがこの男の唯一の盾だ。

一体いくつの感情を『仕方なかった』と片付けてきたのか。







「だって」






 仕方なかったんだ。

俺は何もしなかったから、できなかったからああなったのは仕方ないんだ。









「だって、体でも開かなきゃ、

 あんたオレなんか構ってくれないだろ」






 ああそうだとも。オレたちに他にできることなんかありゃしねえさ。






「行くとこないんだ。

行きたいところも、オレがいていいとこも。

 どこへ行けばいいのか、どうしたらいいのか。

誰もちゃんと教えてくれない」






「……みんなそうなんだよ。

 皆同じだぜ、勇」

「知ってる。

でも、オレ、なんのとりえもないから」

「そんなことはない」






 ヒジリさんはとっくに火の消えた煙草をもみ消した。

 視線を落としてオレの手を見ている。







「勇はいい子だ。

 ちゃんと人に気が遣えるし、人を思いやれる」

「は……そんなもん」

「意味が無いと思うか? 少なくとも俺には無理だ。

 ――それに何より」






 ヒジリさんのそれは、ほとんど初めて聞くような優しい声だった。
























「……お前には未来があるからな」






 けれどオレは、その言葉から何も肯定的なものを見出せなかった。

 オレにとってはうんざりするような不確かさの、

ヒジリさんには過ぎ去り刈り取られた期待の束だ。



「あんたはオレじゃだめなのか?」

「逆だ、勇。

 お前が俺じゃだめなんだ」

「そうか。それじゃ仕方ないな」

「ああ」






 この部屋は最初からオレには居心地の悪い場所だった。

 持ち主の人となりも、過去も、見えすぎて重苦しい。

 だからこの場所が好きだった。失うことがとても辛い。







「それでも――やっぱりあんたはオレと同じだよ。

 結局は同じ負け犬だ」

「そう思うか」

「あんたは恨まないのか」

「さぁな」

「なぁ……代償って、このことなのか?」

「質問は終わりだ。

 自分で考えるんだな、勇。

 俺には俺の仕事がある。目の前の仕事を片付けるだけさ」






















 こうして、オレは最後の寄す処を失った。

 ドアノブに附いた血を見ながら、どこか安堵してオレはそれを受け入れた。




















back  top  next