いた。
たった一度の夏をなんとかしなけりゃ、と思いながら、どうにもできない焦りだけが
毎年の季節に埋没してゆく。
けれどオレはたぶん今年の夏を忘れないだろう。
ヒジリさんの自転車で図書館から帰る途中で雨に降られた。
冷夏の涼しさはそのまま、夏の終わりを嘆くように激しい雨ばかり降り続いている。
梅雨明け宣言が早すぎたとか、8月も終わりに近づいてそりゃねえよな。
駐輪場の軒下で、雨にのたうつ地面や、項垂れたひまわりをぼんやり眺めていたら、
オレは忘れないだろうなとなんとなく思った。
この先何があっても、百日間雨が降り続けることがあってもオレは忘れないだろう。
漠然と、でも、
確信を持ってそう感じた。
東 京 ラ バ ー ズ
「降られた」
「そうか。災難だったな」
「ヒジリさんのチャリが」
「あぁあぁ、そんなのはいいからさっさと着替えろ。
風邪引くだろうが」
ヒジリさんは長髪を束ねて鍋を掻き回していた。
オレは取り込んだままの洗濯物の山から、ビックフットの足跡柄のTシャツを
引っ張り出してシャワーを浴びる。
取材旅行が終わってもオレはヒジリさんの部屋に入り浸っている。
ほんとなんとなくいるだけって感じだけで、
ヒジリさんもほとんどパソコンデスクに向かいっきりだけど別に文句も言わない。
ただだらだらとマンガ読んだり、煙草吸ったり、テレビを観たりヒジリさんの
ベッドで寝たり。
ヒジリさんの仕事が煮詰っている時は、こうして代々木上原の図書館までチャリ
を走らせ、面倒な宿題の山に取り組んだりしていた。
邪魔するわけにはいかねえもんな。
「ヒジリさんに訳してもらったとこさぁ」
「ああ」
「スラングだらけで使えねぇっての。
あんなの提出したら逆に叱られるぜ」
「意外と気づくのが早かったな。
宿題はな、自分でやるもんだぜ、勇」
「カレーの具何?」
「茄子とオクラと挽肉」
「うん、オーケーオーケー」
「何がOKなんだか」
雨のせいか、あれほど足繁く通っていた渋谷や新宿に出ることもほとんど無かった。
夏の繁華街は人が多くて疲れる。
今まで付き合ってきた女の子や友達の、誰といた時よりも穏やかな気持ちでオレは
この部屋にいる。
「止まねぇなぁ、雨」
「ああ、水没するな」
「好きだよなぁ、ヒジリさん。終末論とか預言とか」
「仕事だからな。――ちょっと辛かったか」
「オレこれくらいの方が好きだぜ。
でもよぉヒジリさん。実際その通りなったら困るだろ。
困るもん追いかける気持ちがよくわかんねぇんだよな。
水没したらあんたはどうすんだ?」
「どうもしねぇな。溺れるだけだ」
「だよな」
「お前は?」
「オレ?オレは逃げるぜ。
押入れにビニールプールがあるんだ。ガキの頃の。
それに乗ってさぁ、漕ぐ」
「漕ぐったってどこに行くんだ」
「知らね。そのうち沈むんじゃねえの」
「だな」
「おかわり」
「ああ」
「それにしても止まねぇなぁ」
「そうだな」
オレはヒジリさんの邪魔はしたくなかったから、なるだけおとなしくしていた。
大した訳には立たないけど、メシの後片付けくらいはしたし、
珍しく晴れた日には手形に怯えながら洗車したりもした。
なるだけ笑ってた。
オカ話にもちょっとは付き合おうと、図書館でそのテの本を読んだりもしたけど、
これは面倒臭くてすぐやめてしまった。
フェラチオもうまくなったし(まぁ、男だしな)その他のことも追い追い覚えた。
ただヒジリさんが、オレといて少しは楽しけりゃそれでいいと思ってた。
オレの頭から腕枕を外された時も、
雨のベランダで長いこと誰かと電話している間も、
ずっと、眠ったふりをしていた。
この先何があっても、オレはあの海の碧を忘れない。ごうごうと高い波。
本だらけのヤニ臭いこの部屋。