あー。

早く終わんねえかなぁ、夏休み。







  勇に会いてぇー。


 
会いたい会いたい会いたい会いたい。









今どこにいるんだろう。何やってんだろう。

 一ヶ月近く顔すら見れないのは、同じクラスになってから始めての苦しみだった。



 駅ビルの屋上でおれはぐったりと夕暮れの町並みを眺めていた。

 身につけているのはサイバースの青いハッピとハチマキ。

 夏休みの前半は陸上部の合宿に明け暮れ、8月に入ってからは塾の夏期講習と、

 氷川さんのところのアルバイトの往復で過ごした。






 とにかく動いていれば、勇のこと考えたりしないで済む。

 この夏さえ乗り越えればすべてをリセットできる。



 そう思って詰めこんだスケジュールだったけど、

 たとえば塾に通うための小田急線の座席で、

 アルバイトの休憩時間のこの屋上で、

 ふとしたときに考えずにはいられない。


 
傷つけて別れたっきりの勇のことと、ほんの数ヶ月の命だった、

 眼下に広がる世界のこと。












「もう上がりかね」


 声を掛けられて振り向いた。

 途端に何かが投げつけられて反射的に受け取る。

 冷えた缶紅茶の送り主は氷川さんだ。


「ありがとうございます。

 
――いえ、休憩終わったら夜シフトで」

「……あまり無理をしないでくれたまえ。

 もっとも…営業部は喜んでいるようだな。若いのに頑張っていると」







 氷川さんが紹介してくれたのは、サイバース社のインターネット新サービスの拡張宣伝

 バイト員だった。

 駅前や繁華街で無料お試しキットを配布して加入者を募るアレだ。

 ライバルは街中で紙袋を配る某ブロードバンドサービス。



 知らない人に話しかけるのも、断られるのが前提の交渉に挑むのも、

 ボルテクス界でさんざんやってきたことだから抵抗は全く無かった。



「氷川さんの紹介ですもん。役立たずと言われなくてよかったですよ」

「無理をすることはあるまい」

「別に無理はしてないです」

「……そうか」



 技術畑の氷川さんがおれの職場と直接関わるはずはないが、

 紹介してくれた手前か、なんだかんだとこうやって様子を見に来てくれる。



 もっとも、あの夜のことが話題に出ることはない。

 おれも氷川さんの顔を見るのは少し気恥ずかしい。






「氷川さんはこれから本社ですか?」

「……そうだ」

「お疲れ様です」

「それが私の仕事だ」

「はぁ」


 会話はいつもこんなんで、弾むって感じではないけれど、

 こうやって気に掛けてくれることはやっぱり嬉しかった。



「……何を見ていたのかね」

「いえ、夕焼けを」

「ふむ」








 副都心の向こう側で、陽はまさに沈もうとしていた。

 おれに並んで立つ氷川さんの顔を赤く照らし出す。

 ビルが長い影をこちら側に落とし、夜に対抗するために人工の灯りを点し始めている。






「………火宅だな」

「カハク?」

「大火に焼かれる家のことだ」

「ど、どこですか!?」

「三界の朽ち故りたる火宅の如く」







 見回す限り消防車も立ち上る煙も無い。

 いぶかしむおれに氷川さんは静かに答えた。










「煩悩の火に焼かれる平穏無き世界。

 ………この世のことだよ」

「はぁ」





 なるほどなぁ。

 おれの苦しみも煩悩か。

 この世界を生きるってこういうことなのか。


 でも、そしたら、


「……愛ってなんなんですかねぇ」



 缶ティーを開けながらおれはしみじみと呟いた。



「ふむ。……難しい質問だな」

「なんかおれまたバカなこと言いましたね。

 忘れてください」

「そういう詩がある」

「はぁ」

「…………」

「………………」

「…………」

「……………」

「…………」






 あれ?








「暗唱しないんですか?いつもみたいに」

「………その、つまり」

「はい」

「……いささか、恥かしい詩だ……」

「今さら氷川さんが恥かしがってどうするんですか!」

「……そうかね」


 あの氷川さんが照れる詩ってどんなんだ?


“――私はあなたを”

 おれの視線を横顔で受け、氷川さんは小さな咳払い一つして諳んじ始めた。

 夕暮れに通るきれいな声だった。



“束縛せずに愛したい。

  判定せずに称賛したい。

  侵入せずに結ばれたい。

  強制せずに誘いたい。

  後ろめたさなしに別れたい。”








 どんな恥かしい修辞が出てくるのかと思えば、

 単純な言葉の羅列におれは拍子抜けした。









“責めることなく評価したい。

  見下すことなく助けたい。

  あなたも同じようにしてくれたら”






 日はもう落ちきり、青い帳がゆっくりと辺りを包んでゆく。









“――二人は本当に出会い、互いを豊かにできるでしょう”

「…………」

「以上だ」

「それ、詩ですか?」

「そうだ」

「……なんか、それって」



 明快な答えを期待していたおれは、落胆で口ごもった。



「言いたまえ」

「いや、なんつーか……

 当たり前のことですよね。前提っつーか。

 わざわざ詩に読むようなことじゃないかと……その」



 氷川さんは黙っておれの顔を見た。



君は……確か、高校生だったか……」

「す、すみません。生意気言って」





 うわ。何言ってんだおれ。

 まともに人とつきあったことなんてねえし童貞なのに、

 なんか見当違いのこと言ってるって思われてるよこれ。






「………十年の後も……君の口から……

 同じ言葉を聞きたいものだな」

「はぁ……」

「………礼を言う」













 なんで?













 すっかり屋上は暗くて、互いの表情もよくわからなかったけれど、

 氷川さんはおれの自己嫌悪なんてお見通しみたいで、珍しく和らいだ目をしていた。



 最初の東京受胎を起こした当人が、未来のことなんて言い出すのがおかしくて、

 おれもなんだか笑ってしまった。



































 今日の日記。曇りのち晴れ。


 氷川さんと和んでいたせいで、職場に戻るのが遅れて少し怒られた。

 くたくたになって家に帰ってから、勇気を出して勇に電話した。

 留守電だった。





 明日もバイトだ。がんばろう。





















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