都心からちょっとずれた8階建てマンションの、7階の半フロアが新田さん宅だった。
もちろん来るのは初めてだ。
さすがに千晶ほどじゃないけど、いいとこ住んでんだなぁというのがおれの感想だ。
「お邪魔します」
靴を二三度整えながら玄関マットを踏み、親御さんにどんな挨拶をしようかとか
おれの心象風景的カグツチ戦はまだまだ続いていた。
こ、こういうのって第一印象が大切なんだよな。
「あ、親いないから気ぃ使わなくていいぜ。
帰ってくるのも夜中だし」
「そ、そう」
暗いキッチンを脇目に勇の部屋に通される。
モデルルームみたいなシステムキッチンにはあまり生活感が無く、
水切り台にコンビニ弁当の空き箱が無造作に積み重なっていた。
おれは、勇が真っ直ぐ家に帰りたがらなかった理由が、
ほんの少しわかった気がした。
「散らかってっけど適当にくつろいでくれ。
おっと、勝手に漁るなよ」
飲み物取ってくる。と勇はおれを放置する。
漁る余裕なんてあるわけないだろ。
勇の部屋。
その響きだけでおれもうどうにかなっちゃいそうで、
油売りのガマのように部屋の真ん中で正座していた。
必要最低限のものしかないおれの部屋に比べ、勇の部屋は色んなものが溢れかえって
いる。
一番溢れかえっているのは洋服ダンスだ。
あちこち開いた引き出しから、とっかえひっかえした跡そのままに服がはみ出している。
帽子……キャスケットだけでいくつあるんだ?
いつも同じ帽子じゃなかったんだ、あれ。
逆に本棚は申し訳程度の品揃えで、マンガと参考書ぐらいしかない。
変な形のエレキギターが埃を被ってそれにもたれかかっている。
「あれ?」
マンガ本の間に、さかさまにねじ込まれている緑色のラバーカバーがおれの目を引いた。
『新約聖書』
ってこれ、中身も聖書なのか?
それともエロ本を誤魔化すためにカバーを掛けているのか、
どうにも気になって仕方ない。
背表紙に指をかけたところで勇が戻ってきた。
「こら。漁るなって言ったろ」
と、持って来たコーラのペットボトルで頭を叩かれた。
「クリスチャンなのか?家」
「別に?
駅前で配ってただけだよ。ティッシュかと思ったんだけどさ。
なんかそういう本って棄てにくいんだよな。バチとか当たりそうで」
そんなこと言い出したら、累々と天使を倒したおれはどうすれば。
「悪ぃな。座布団とか無くて。
あんま人とかいれないから」
「い、いや。
おれ床の上大好きだから」
「座れば?」
と、あまり見ないようにしていたシングルベッドに腰掛け、
勇はぽんぽんと自分の横を叩いた。
「う、う、うん」
見えない床の上を歩くように慎重に、おれは勇の横に座る。
グレイのベッドカバーに揃いの枕。
勇が毎日ここで寝起きしているのかと考えると、それだけで体温が上昇しそうだ。
「傘無かったら貸すから」
「え?」
「帰り。雨降りそうだ。
今年梅雨長いよな。いつ明けるんだか」
「うん、長い」
「でも期末終わったら夏休みだもんな。
来年は受験だし、遊べる最後の夏だろ?
あー、海行きてえなぁ。海。
オマエもう遊ぶ予定立ててる?」
「いや」
「そうやってぼーっとしてるとあっという間に夏休み終わっちゃうぞ。
あーでも宿題どうだろ。去年の祐子先生の宿題覚えてるか?
変な本の読書感想文でさ、読んでないのに適当にでっち上げたらバレバレで」
「うん」
「…………人の話聞いてるか?」
「……うん」
あんな酷いこと言ったおれに、どうしてそんな普通に話せるのか。
勇がよくわからない。
いつも勇の考えてることは本当にわからない。
今まで誘ってくれたことのない自室に、なんで今おれがいるのかとか。
「ギター」
「へっ?」
「ギター弾けるのか、勇」
「あ、持ってるだけ。コードもう忘れたよ」
勇がほっとしたように立ち上がり、ギターの埃を払ってピックも無しに弦を弾く。
ぎゅいんぎゅんぎゅんぎゅんと一小節を奏で、最後の音をきれいに外した。
「すげえな、勇。かっこいい」
おれはもらったコーラの蓋を開けるのも忘れ、ぱちぱち拍手する。
「バーカ、こういうのは弾けるうち入らねえんだよ。
中坊の頃は結構やってたんだけどな。
上手くなるには毎日2時間とか触んなきゃいけねえし」
「難しいな」
「イヌノ、弾いてみる?」
「いいのか?」
ベッドに腰掛けたままのおれに、勇がエレキギターを構えさせる。
「左手が、ここ。
違う、逆」
「こう?」
「チッ。
正面だとわかり辛いな」
勇は膝立ちでベッドに上がり、おれの背後に回る。
覆い被さるようにおれの左手に自分の指を重ね、どの弦を押さえればいいのか
直接示した。
指が触れる。
「ここ三つ押さえて」
背中に勇のからだを感じた。
「弾く」
力が抜けたようなアンプ無しのエレキの音もほとんど聴こえなかった。
長すぎる前髪が触れている頬と、重なった指だけにすべての意識が集中していた。
「これがAコードな」
「…………うん。ドの音がする」
「オマエ、耳悪いのか?」
「ごめん、レかも」
「なぁ、イヌノ」
おれもどきどきしていたけど、制服のシャツを通して勇のどきどきも伝わってきた。
振り向こうとすると、勇がおれの肩に額を押し付けそれを制した。
心眼を持ってたら、その時の勇の表情が見えたんだろうか。
「――オレのこと、まだ好き?
それとも…………嫌いになったか?」
嫌いになんてなれるわけがないだろ。
どんなにわがままを言われても拗ねられても、
顎でこきつかわれても振り回されても、
何考えてるかさっぱりわからなくても、
どうしたって、勇のことを嫌いになんてなれるわけない。
てか、めちゃめちゃ好きだ。死ぬほど好きだ。
「……それとも、とか言うなよ」
おれは右手を六弦から離し、重ねられた勇の手を握り返した。
勇は手を抜こうとしたけど離すもんか。
「嫌いだったら――部屋に来るわけないだろ」
「そうか……」
微かなため息がおれの肩をくすぐる。
「それは、よく来てくれた……」
「顔見せろよ、勇」
ギターをベッドに立て掛け、おれは勇の肩をつかんだ。
俯いた勇はほんの一瞬怯えた表情を見せ、けれどすぐにいつものように唇の端を上げ、
あの生意気な笑みを作っておれの襟首をつかんだ。
それは本当に一瞬で、おれは何が起こったのかすぐにはわからなかった。
唇に何が押し当てられ、それが固く結ばれた唇だと気づいた時には、
勇はおれをベッドの上に突き放していた。ベッドの角にまた頭をぶつけた。
ほんの一秒。