……戸市北区で夫妻が遺体で見つかった事件で、兵庫県警有馬署は28日、

「両親を殺した。自分は死に切れなかった。母の病気の治療代などで借金苦に陥った」

と同県明石市内の交番に出頭してきた三男を殺人容疑で逮捕……





 世界は惨劇で溢れていると、

 電光掲示板が道行く人々に教える。




……明町の県道で、全盲で白いつえを持っていた女性と外出介助をしていたボランティアの主婦が後ろから来た

 ワゴン車にはねられ間もなく死亡……






 雨の日曜日、夕方。

人々がごった返す渋谷駅前の交差点で、それを見上げているのはおれ一人。




……フセイン政権崩壊後、住む家を追われ、難民キャンプでの生活を強いられているパレスチナ系住民が急増。

 この「再難民化」はイラク戦後復興の影に隠れて注目されず、住民は危機感を募らせている……






 世界は惨劇と絶望で溢れている。

 それを見ることもなく、恐ろしいほどの人の波がどこかへと動く。

信号が青になるたびに行き交う華やかな傘の群れ。

 冷めたスタバのコーヒーを片手に、ジャージ姿で立ち尽くすおれが、

 この世界を創ったことなど誰も知らない。


















                         東京 ラバーズ 
















 一人で見る渋谷は呆れるくらい広く、大した用事も無いおれはすぐに行き場を失う。

勇は学校の廊下ですれ違ってももう顔も上げてくれない。

謝るタイミングなんてとっくに失った。

 勇の休日の過ごし方もいきつけの店も知っているから、

 せめて偶然を期待して渋谷で過ごす毎週末。



 ――でもそれも飽きた。








飲み終えたコーヒーカップを潰して、溢れているゴミ箱の上にそうっと載せる。



 日も落ちるし帰るかなぁ。

しかっし人多いよなぁ。勇が紛れ込んでもこれじゃわかんねぇや。





何やってんだろうなぁ。





テストの結果も結局散々で千晶にバカにされまくったし、

自分で創っといてなんだけど、世の中間違ってるよなぁ。



「………君」



 勇なぁ。

もうだめなのかなぁ、おれたち。



 まぁ最初から何も始まっちゃいないんだけどさ。

一歩進展どころか、マイナス200歩くらいの感じだよな。

いい加減諦めろって言われているようなもんだしな。

おれも休みの日潰してまで何やってんだか。



 道を行き交うおれと同じくらいの子とか、年上の人とか眺めていたら、

なんだか毎日見ているはずの勇の顔を忘れそうになる。






こんなに人間いるんだし、

勇より可愛い子も、探せばたぶん……いるかもしんないし。

(まぁ見渡す限り勇が一番可愛いけど)

勇より素直な子も、……あいつより素直じゃないヤツ探すよりなんぼか楽か。



「君」



 肩を叩かれて跳ね上がる。



「………氷川、さん」



 人ごみの中、一際目立つ個性的な髪形。

黒い傘を差した細い腕を見間違えるはずもない。



「……君はこないだの童貞か」



 わー。嫌な覚え方されてるなぁ。



「す、すみませんその節は……その、急に抱きついたりして

「いや……警備員を呼んだ私も大人気なかった」

「この人出で、よくおれがわかりましたね」

「傘に……見覚えがあったのでな」



 おれの手に握られているのは、新宿で氷川さんに譲り受けたサイバース傘。

 確かに青くて目立つかも。



「あ、ずっと借りっぱなしで。お返しします」

「それは私が君に上げたものだ。気にしなくていい。

 ――誰かと待ち合わせかね」

「いえ。もう帰ろうかと思って」



 どうやら氷川さんは怒っていないようで、おれはほっとした。

 休日というのに仕事なんだろうか。

 いつものスーツ姿は、いつもと同じように少し疲れて見えた。



「……もし、時間があれば食事でもいかがか」

「は?」

「いつぞやの無礼を詫びたい」

「いえ、無礼なのはどう考えてもおれのほうで」

「若者が遠慮するものではない。来たまえ」



 そう言うと、氷川さんはくるりと背を向けて横断歩道を渡り始めた。

 どうしたものかと迷ったのが一瞬、おれは見失う前にその後を追いかけていた。

 おれが淋しいのはもちろんだけど、氷川さんの背中もなんだか淋しそうに見えたから。

 イケブクロで一人佇んでいたあの時みたいに。




 雨のせいだろうか。




「……よく降りますね」

――知っているかね。


“町に雨が降るように、私の心にも雨が降る”……そう言った詩人がいる。

人に降りかかる感情を雨音に喩えたのだ。時には優しく、時には残酷に。

 思えば人生とは太古の昔から苦渋に満ちたものだった……」



 うわ、始まったよ。相変わらずだなぁ氷川さんは。

今の氷川さんにとっちゃ、おれなんてほとんど面識のない通りがかりの高校生なのに。

この人は誰にでもこうなのか。



「詩、好きなんですか」

「………」

「おれ、あれなら知ってます。授業でやったんで。

 “雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ”

「…………宮沢賢治」

「そう、それ」



 ようやく会話らしきものができて、おれは嬉しくなって後を続けた。



「えーっと……雪ニモ夏ノ暑サニモマケズ

“マケヌ”だ」



センター街のアーチの下をくぐる黒い傘と青い傘。



「いや、でもこれはおれが唯一暗唱できる詩で……」

「続けたまえ」



“丈夫ナカラダヲモチ

欲ハナク

決シテ瞋ラズ

イツモシズカニワラッテイル”



 あれ、なんかこの詩って……。



“一日ニ玄米四合ト

肉ト少シノ野菜ヲタベ ”

“味噌”だ」

「……すみません、降参です」



 氷川さんは低く済んだ声で後を続けた。



“アラユルコトヲ

ジブンノカンジョウニイレズニ

ヨクミキキシワカリ

ソシテワスレズ ”



「――なんかこの詩って……」

「何かね」



 シジマのコトワリっぽいですね、と言いそうになり

 別の言葉で言い換えた。



「氷川さんぽいですね」

「………」



 氷川さんはこちらを見向きもせずに、表情一つ変わらず歩いている。

 またトンチンカンなことを言ってしまった。

 おれたちは面識が無いんだ。少なくともこの世界では。



……君は何者だね」

「あ、小林っていいます。小林イヌノ」

「私の名は氷川だ。……君は知っていたのだな」



 せっかくだからおれは積年の疑問をぶつけてみる。



「下の名前はなんていうんですか?」

「名は――」

「あ」



 その答えを遮り、思わず声を上げてしまった。



 センター街の十字路を越え、奥まった道へと続く居酒屋の前。

見覚えのある帽子。ジャケット。見たことの無い傘。

 ちらつく横顔は、おれがずっと探していた面差し。


 勇。


 一人ではなかった。

勇の横には、当然のようにあの男がいた。

こちらは背中しか見えないけど――長いドレッドとあの服に間違いはない。



 勇は一つしか無い傘を、腕を伸ばしてヒジリさんに差しかけていた。

一所懸命歩幅を合わせている。笑い顔が少しだけ見えた。

傘は精一杯ヒジリさんに手向けられ、反対側の勇の肩は雨に降られていて――。



 と、

呆けている間に、ヒジリさんはその肩に手を回し勇から傘を取り上げた。

勇も大して抵抗せずに、ぎこちなくジャケットの裾を掴んでみせる。

人前だっつうのにやることが違う。






おれは目を離すことができなかった。





そっか。そうだよな。



 遊びとか言っといて、なんだ、うまいこといってるんじゃん。

勇も照れ臭くてあんな言い方してたんだよな。なぁ?



 人ごみに紛れ小さくなっていく背中。

雨の中どこへ行くんだろう。

そっちには大戸屋とラブホとまんだらけくらいしかないのに。



 不思議とヒジリさんを恨む気持ちは湧いてこなかった。

ヒジリさんは大人だし、頭もいいし、かっこいいし。

おれが勇でも、きっとガキのおれよりヒジリさんを選ぶ。





それに奇妙な感覚だけど、少し安堵もしていた。

ボルテクス界で疎みあい殺しあった二人が、この世界では穏やかに過ごすことができる。





おれの創ったこの世界では。





「……別の道を行こう」



 急に立ち止まったおれを気遣い、氷川さんが逆方向に腕を引いてくれた。












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