保健室
彼は待った。
大丈夫。
これは夢だから何も怯えなくていい。
ひどく寂寞として、それでいて懐かしいのは、今までに何度も見た夢だから。
夢であるがゆえに彼は彼が来ないことを知っていて、それでも、もしかしたらと願いを捨て切れずにいる。
彼は待って、待って、早く目覚めろと願いながら待ち続け、もう誰を待っているのかあやふやになるほどに。
だから目覚めて覗きこむ顔を見つけても、まだ、これも夢の続きと疑わなかった。
「ごめん。起こしたか？」
級友の問いかけに、新田勇は何度か目を瞬いた。
まだ覚醒しきれない脳が言葉の意味を掴みかねている。
目を擦り、ここが保健室のベッドだということを思い出した。
「……………」
「え？」
「……授業」
「あ。まだ授業中だよ。おれ、ほら」
イヌノは血の滲んだ膝を誇らしげに見せる。
その血の赤黒さにはっとして、勇はベッドから上半身を起こした。
「………ケガ」
「転んだんだよ」体操着姿のイヌノは頭を掻いた。
五時間目の体育は自習で、誰も見ていないのに走っていられるかと、勇は体操着のまま保健室に直行した。
養護教諭もインフルエンザで本日はお休み。
担任の祐子先生に体調不良を訴えて保健室の鍵を開けてもらい、勇はそのまま白く清潔なベッドに潜りこんだ。
女教師は彼への無関心さゆえに、
「そう？お大事にね」
と、疑いもしない。
シーツに包まれ、校庭の喧騒を遠くに聞いているうちに、いつの間にか眠ってしまったようだ。
「勇は大丈夫？」
「へっ？」
「具合悪いんだろ。おれ心配でさ……」
自分のケガにはまるで無頓着で、イヌノはしきりに勇の容態を気にしている。
「バーカ、サボりに決まってるだろ。こんなクソ寒い中外で自習なんかやってられないっての」
「あ。ずりぃ」
心配させるのが嫌で彼は嘘をついた。
横になる前に挟んだ体温計は３７度１分。
帰るほどの体調では無かったが、さりとて元気に走り回れるほどでもない。
「それより膝。ちゃんと洗えよ。泥ついてんぞ。
――まさか、オレに会いにくるためにわざと転んだとかじゃないだろうな」
「さすがにそれはないよ。……上の空で走ってたのは確かだけど」
彼は体育が好きだった。
けれど、保健室に行ったきりのクラスメートのほうがもっと好きだったので、しきりに校舎の方角ばかり気にしていた。
その甲斐あって派手に転倒した時も、これで見舞いに行く口実ができたと内心喜んでさえいた。
「バッカだなオマエ。ぼーっと走ってっからだよ。
ほら、貸してみろ」
ほうっておくと傷が乾いてしまう。勇は文句を言いながらベッドから這い出た。
薬棚を開き、しかしさっぱり勝手がわからないので、オキシフルを綿に含ませて乱暴に拭う。
傷に沿って白い泡が湧き、しゅわしゅわと音を立てて消える。
「いってぇ！」
刺激痛にイヌノは情けない悲鳴を上げた。
「……あとはツバでもつけとけ」
「サンキューな、勇」
イヌノが膝にバンソウコを貼るのを尻目に、勇は再びベッドに潜りこむ。
「授業出ないの？」
「あー。体育終わったら考える。ほら、さっさと戻れよイヌノ」
イヌノをすげなく追い返す素振りを見せながら、勇は内心安堵していた。
もし目覚めたときに一人だったなら、彼は夢の中のうら淋しさをまだ引き摺っていただろう。
小林イヌノは彼のクラスメートで、恋人だ。
以前はアクマだったり創世主だったり、もう少しややこしい肩書きがたくさんついていた。今ではそれらは過去の話だ。
過去を忘れたそぶりと引き換えに、二人は平穏な現在を生きている。
帰れと言われ、出口へと数歩歩いたものの、やはり勇が気にかかる。
イヌノはベッドの隅に戻り、勇の額に掌を乗せた。
自分と勇の額を交互に触れ、違和感を感じたので額を直にくっつける。
鼻と鼻が触れそうな距離で、勇はおとなしくされるがままになっていた。
「……やっぱ熱ねえか？」
「寝てたから体温高いんだよ」
「そういうもんなのか？」
「いや。知らねえけど」
「ほっぺた赤ぇし」
「いちいち触んなコラ」
「ちゅーしてもいい？」
「………そこのカーテン閉めたらな」
夢の心細さをまだ引き摺っていたので、勇自身も本当は恋人に傍にいてほしいと望んでいた。
彼は淋しがり屋ではあったが、それ以上に弱味を見せるのが大嫌いだったので、
間違ってもその望みを口にするようなことはしなかった。
そんなためらいを知ってか知らずか、イヌノは律儀に仕切りカーテンを閉め、覆いかぶさるようにキスをした。
唇はかすかに土の匂いがした。
軽くついばむように唇が触れ、離れ、また触れあい。
繰り返すうちに冗談めいたキスが熱を増してゆく。
そのうちにイヌノの膝がベッドに乗り上がる。
熱心に絡む舌を受けながら勇は、もしこの微熱が風邪ならば、彼に移してしまうんじゃないかと気を揉んでいた。
と、扉を叩く音がした。