そうだ。

 別におれは感謝されたくて芯を分けたんじゃない。

 あの性格悪ぃ男子にお礼なんて言われなくたって気にするもんか。

 お陰でカチカチいう音をあれ以上聞かずに済んだし、

 ほとほとうろたえているアラタくんの姿を思い出さずに済んだ。










 すべての試験が終わり、昇降口でおれは千晶を待っていた。

 あまりにも気が散る事件が多すぎて、どうにも達成感は無いけど、

 これで一つ終えたと思うとやっぱり嬉しい。



 受かってるといいけど、どうだろ。むつかしいかなぁ。







「よっ」







 急に肩を叩かれ、振り返るとあの意地悪なアラタくんがいた。



「あ、アラタくん」



 まさか話しかけられるとは思っていなかったので、おれはとてもびっくりした。

 こっちはアラタくんのお陰で、朝からモヤモヤとイヤな気分だったってのに。






「イサムでいいよ。あとあれ、ニッタって読むんだぜ。

 ハハハッ、オマエ、国語の成績悪いだろ」






 邪気もなく笑われ、おれはすっかり拍子抜けしてしまった。

 なんだこいつ。朝とガラリと態度が違う。



「あ、イサムって、あれ、名前か」

「あぁ……朝は悪かったな。

 受験票見つからなくってイライラしてた上にさぁ、オマエちょっと無神経すぎるぞ。

 受験生だらけのところで『落としただろ』なんて、縁起悪いだろ」

「……なんか」

「なんだよ」

「………顔に似合わず、ゲンかつぐんだね」

「顔に似合わないは余計だろ。

 ゲン担ぎそうな顔って、一体どんななんだ?」







 アラタ……じゃなかった、にった、いさむくん。

 イサムくんは口の端をきゅっと上げて、なんだか値踏みするようにおれの顔を覗きこむ。

 朝と違うのは、そのいたずらっぽい眼差しだ。

 そして、ほとんど初対面のおれにやたら饒舌に話しかけてくる。







「………あと、オレ、ちょっと嫌なんだよね。そうやって読み間違えられるの」

「そうなの?」

「……だって、ユウって女子みたいだろ。ほんとはイサムなのに」






 自分で言って恥かしくなったのか、すねたように唇を尖らせて俯く。

 あれ、あれ?






「ご、ごめん。もう間違えないから」

「なぁなぁ、試験どうだった?ここ、受かりそうか?」

「えー…っと、まぁまぁかなぁ」

「……なんだよそれ。

 まぁ、オマエじゃ無理だな。オレの名前もロクに読めないんじゃ」

「あ、ひでえの」

「試験官の女の人、すっげぇ美人だったよな!

 あの人、ここの先生なのかなぁ。それとも、職員さんかなぁ」






 あれ?あれ?

 なんだこいつ。なんだこいつ。



 や、やっぱ……………かわいくねえか?






「オレさぁ、試験中にシャーペンの芯切らしちゃったんだわ。

 そしたらあの試験官の先生がさ、そっと差し出してくれて……くーっ!

 あー、あの美人が先生だったらなぁ!

 そしたらオレ他の学校受けるのやめて、ここにするぜ!絶対」

「あの……それ、おれが……」

「あ!オマエ」






 勇が急に顔をじっと覗きこんできたので、おれはビックリして腰が引けてしまった。

 な、なんだろう。もう男好きってバレたんだろうか。高校デビューもまだなのに。






「マツゲ長いなぁ」






 なんだ……そんなことか……。






「あ、おれ全体的に毛深いんだよ。 スネなんかもう密林でさ」



 ズボンの裾をめくって見せようとしたら、嫌な顔で止められた。



「おいおい、もう高校生になるんだから、処理くらいできなくちゃだめだぞ」

「そういうもんなの?」

「そりゃそうさ。 特に、足とかは女子チェック厳しいからな。

 ジーンズ履くときのためにも、ちゃんと手入れしないと」

「ジーパン履くんなら別に毛はいいんじゃないのか? 足隠れるし」

「え。 足出すだろ」






 話が噛みあわない。






 どうして初対面で同い年の男子に、

 入試会場でおすぎかピーコ並みの身だしなみチェックをされなくちゃいけないのかも

 おれにはさっぱりわからなかったが、そんなに嫌な気分じゃなかった。



 むしろ、ユ……イサムくんのあけすけな物言いはなんだか心地よかった。

 朝の最悪な印象がいっぺんで吹き飛んでしまうくらいに。






「あと、眉毛だな」

「眉毛?」

「うん、ここんとこ、ちょっと」






 人差し指で眉山をなぞる真似をする。

 おわ。 か、顔近い。赤くなってんじゃないのか?おれ。

 気づかれてないといいけど。






「削ったら、もっとかっこよくなると思うぜ。オマエ、顔がいいしな」

「そ、そうかな……」



 かっこいいって言われた……。



「あ、でも、眉毛は抜きすぎると薄くなるから気をつけろよ」






 そう言って、自分の眉を気にして指先で押さえる。

 ダッフルコートの袖から覗いた指先がまぶしい。






「あ、うん。すげえ気をつける」

「その髪のハネ、寝ぐせ?」

「よくわかんねえ。 なんか、はねる」

「ハハハ」






 おいおい、こんな子がクラスメートだったら毎日楽しいんじゃねえの?



 まだ受かってるかどうかもわからないのに、おれは見果てぬ高校デビューが

 俄然楽しみになってきた。






 I want a boyfriend. 

 I need a boyfriend. 

 そのためには、私はムダ毛を処理します、って、英語でなんていうんだ。






「受かってるといいな!」



 社交辞令にも思わず熱がこもる。

 勇くんはちょっと頭を掻いて



「うーん……。でも、オレは無理かもなぁ。

 試験にも自信無いし、こんな進学校、受かったところでついていけるかわかんないし」

「……大丈夫だと思うよ」

「オレの成績も何も知らないくせに」

「まぁね」






 ウッカリさん、ってのだけはわかったけど。






「……オマエってお人よしだな。

 オレがもし受かったら、その分オマエが落ちてるのかもしれないんだぜ」

「あ、そっか」

「抜けてんなぁオマエ。オレたち競争相手なんだぜ」

「うん。 でも、まぁいいや」

「さすが、彼女連れで受験に来るヤツは余裕あるよな」

「彼女?」

「なんかカワイコちゃんと一緒だったろ」

「え? え?」

「ほら。噂をすれば」






 言葉の意味を掴みかねていると、勇くんが校内に目を向ける。






「イヌノくん」






 つられてそちらを向くと、千晶がコートのポケットに手を突っ込んで立っていた。






「あ。なんだ千晶か」

「なんだ、じゃないわよ。終わったんだからさっさと帰るわよ」

「いや千晶はこれっぽっちもそういうんじゃなくて」






 説明する間も与えられず、勇くんの姿は消えていた。

 辺りを見回すと、もう校門を通り過ぎたダッフルコートが、

 こちらに軽く手を上げ、すぐに背中を向けてしまった。






「誰?」

「なんか、知らない子」









 現れたときと同じ慌しさで去っていく、その背中におれは確かに何かを垣間見ていた。









「どうしたのよ。行くわよ」

「あ。うん」










 一貫した拒絶と、どこか媚すら含んだ馴れ馴れしさが、

 全く同じ怯えから来ることを、おれはそのうちに思い知ることになる。

 勇の持つ脆い盾と矛のほんの一端に触れ、奇妙な違和感に戸惑いつつも、

 その正体を知るのはもっとずっと後だ。

 おめでたいおれは、それこそ、世界がひっくり返るまではまだわからないのだ。










 千晶の後を追う坊主頭のおれは、合格前に友達ができて嬉しいと、

 勇がおれの苗字すら尋ねなかったことにも気づかず喜んでいるだけだった。













 その肩にやがて世界の命運が乗っかるなんてことは、

 その夜に抜いた眉毛の先っぽほども気づいちゃいなかった。














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