はるのひ
















 伸びかけた坊主頭に、風が冷たかったことを覚えている。







 高校受験当日の朝、家を出るのが5分遅かったという理由で、

 おれは当然のごとく幼馴染みの千晶に置いていかれた。



 それはまぁいい。いつものことだし。

 どうせ目的地は一緒だし、駅からそんな遠いガッコでもなかったから、

 いくらおれ一人だって道は間違えないだろうし。



 目的の駅に着いた時はギリギリで、おれはそれなりに初々しく、

 公式と英単語をブツブツ諳んじながら下を向いて歩いていた。







「あれ?」







 受験票を踏みつけてしまい、おれはいつの間に落としたのだろうと

 慌てて拾い上げた。



 違った。

 鞄の中に入れたまんまの大切な書類を落とすわけがない。

 それは見知らぬ誰かの受験票だった。



 はたして、こんな大事なものを落とす奴がいるのだろうか。

 よっぽどのドジっ子か、間の悪い奴だよな。






 公式も英単語もすっ飛んでしまい、試験会場までの短い道のり、

 おれはその紙切れにすっかり意識を持っていかれてしまった。



 たぶん、財布の中に入れておいたんだろうな。

 そんで切符出すときにうっかり落としちまったんだろう。

 きっと今頃、受付でさぞかし困ってることだろうな。

 しかしなんて読むんだろう、これ。



 白い息を吐きながら、あれこれ想像していると

 なんの文法も思い出せないまま会場に着いてしまった。

 千晶はとっくに席に座っているはずだ。

 

 まぁいい。こういうのは普段の積み重ねが肝心なんだ。

 受験票のほうは、受付にこっそり出しておけば、そのうっかりさんの手元に返るだろう。






 そう考えていたら、校門の前で上着のポケットを返す返す引っ張り出している、

 わかりやすくも慌しい姿があった。

 ああ、あいつが落とし主かな。



 呼びかけようとして、口ごもってしまう。

 ダッフルコートとマフラーに埋もれた横顔が、ほとんど泣きそうにうろたえていた。

 ちらっと覗いた目元が、ちょっとびっくりするほどかわいい。

 長めの前髪と相成って、一瞬女子かと見間違えてしまうほどだった。

 受験票には確かに性別:男とある。

 もちろん男子のほうがおれは嬉しい。







 おれが同性を好きだと自覚したのは幼稚園の頃だ。

 テレビでプロレスを観戦していたおれは、組み敷かれる屈強な仮面レスラーに

 なんともいえない興奮を覚え、いやその話は長くなるのでやめておこう。

 






「アラタくん?」






 恐る恐る呼びかけるが、まるで聞こえていないかようだ。

 今度は鞄をひっくり返す勢いで漁り始めた。






「アラタユウ?」






 もうちょっと近寄って、もうちょっと大きな声で呼びかけてみる。

 さすがに声は届いたのか、辺りをきょろきょろと見回し、

 視線を向けられているのが自分だと気づいたようだ。

 白い息を吐きながら、こっちをきょとんと見つめる。






 やばい、やっぱ可愛いかも。






 おれはちょっぴり頬に血が上るのを感じた。

 受験開始直前というのに、我ながら呑気なもんだと思う。

 でもまぁ、可愛い男子にニコッとお礼でも言われたら、験も担げるってもんじゃないか。






「受験票落としたの、きみ?」






 アラタくんはつかつかと歩み寄り、おれの手から靴痕のついた受験票をもぎ取る。






「いさむだ!」






 キッと睨まれ、いきなり怒鳴りつけられた。

 おれは一体何を怒られているんだかさっぱりわからない。






 いさむだ?

 無駄?

 イサムダ!っていう外国語の挨拶か?留学生?

 おれもイサムダ!って返すべきなのか?

いや、そんな雰囲気じゃなさそうだ。なんだかえらく怒っている。



 あれ、大体なんでおれ見ず知らずの男子に怒られなきゃいけないんだ?






「…ったく、持ってるんならさっさと渡せよな。

 なにぼーっと突っ立ってんだよ。

 うわ、靴の跡。これ、このまま出して大丈夫なのかよ……」






 な。







 なんだ、こいつ。







 童顔で小柄な外見に反して、えらい態度がでかい。口が悪い。



 受験票もぎ取ったらおれには用無しと言わんばかりに、

 そいつはお礼の一つも言わずにタータンチェックのマフラーを翻す。

 お、おれが拾ってやらなきゃ今頃もっとうろたえていたくせに!






「あーあ、駆け込み入試じゃ心象悪くなるかなぁ。

 まったく朝からついてないぜ」

「おい待てよ!」






 恩を仇で返すその態度に、さすがのおれも腹が立った。

 一瞬でもかわいいと思っちまった自分が恨めしい。



 ダッフルコートの肩をつかんでこっちを向かせる。



「なんだよその口の利き方!

拾ってやったのに、お礼の一つも言えないのか?」


「……別にいいだろ。どんな口利いたって。

 何かしてもらったわけじゃないし」

「おれが拾ったんだよ!」

「お礼言われないから怒るなんて筋違いなんじゃないの?

 人の感謝を期待しないと落し物一つ拾えないのかよ」

「え?」

「触るな」





 あどけないこの顔のどこに、というような皮肉っぽい嘲笑を一瞬浮かべ、

 アラタくんはおれの手を振り解いて走り去って行った。






 おれはアラタくんの言葉の意味が掴めず、いや、

 意味が判ったからこそ立ち止まってしまった。






 とっさに上手い反論が思い浮かばなかった。

 腹が立ったのは、期待していたお礼を言ってもらえなかったからなのか?

 でも普通は、
『ありがとう』くらい言ってもらえてもいいよな?

 大体あんな態度をとられる理由がわからない。







 わかったのは、アラタくんの性格が最悪だってことだ。







「ちょっとイヌノくん、何やってるのよ。

 試験始まるわよ」



 試験会場――高校校舎の出入り口から、千晶が顔を出しておれを呼びかける。






「いけね」






 そうだ、今日の目的は受験だ。

 大事な試験だっつうのに、何やってんだろう。

 おれは最悪の気分のまま、会場までの短い距離を走った。


















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