昼少し前に起きて遅い朝食を摂るために大通りのフレンチカフェへ向かう。
建物を出たところで上の階の黒人女性が親しげに声をかける。
愛想笑いのできない彼は未だ中国人だと思われているようだが、ことさら訂正する気にはならなかった。
なぜフレンチカフェなのかといえば、食後のコーヒーを飲みながら煙草を吸える場所が他に無いからだ。
禁煙ではないその店ですら、シガレットケースをテーブルに置くと後ろの席の女性客が迷惑そうに席を立つ。
露骨な様子が一人の男を思い出させて彼は苦笑する。
異常な量のサンドイッチの具に辟易しながら、彼は大きく開かれた窓を眺めている。
金融街が近いせいか行き交う人々も忙しげで、窓の向こうとこちらでは時間の流れが違うかのような錯覚を覚える。
彼もかつては窓の外にいた。
今日はとても天気がいい。バスに乗ってセントラルパークまで足を伸ばすのも悪く無いだろう。どこにいたって寒いのは一緒なのだ。
久しぶりに知人の声でも聞きたくなったが、時差を考えれば電話は深夜まで待たなければならない。
また聞きもしないのにあの男のことを語ってくれるだろうか。元気だろうか。
ここに来て彼はある男のことを思い出す時間が増えた。今までは余裕がなく、自分のことしか考えられなかったのだが。
男に向けていた複雑な感情が、遠い距離と一年近い時間をかけてようやく彼に馴染みつつある。
どんなに男が、彼のことだけを考えていたのか今なら理解できる。
すべてのものを捨て去らなければ見えないことが彼には多すぎた。
彼は人が逃れられぬ流れがあることを知っていたし、そのように生きてきたので、失ったものに対する執着は無かった。
執着が無い代わりに新しい欲望も見えない。
一本の煙草が灰になる間に考えるのは煙を毛嫌いしていた男のこと。
恋人だったこともある。とても短い時間だったけれど。
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