モーター音を立てて鉄の箱が動き出す。



「今夜は?」

「無理だ」

「では明日」

「…………遅くなる」

「構いません」

「…………………」





約束はいつもエレベータの中で取り交わされた。

裁判所で私たちが二人っきりになれる場所はそこしかなかったのだ。

この関係が周囲に知られれば、互いに身の破滅。

その共犯めいた意識が、いっそう私たちの距離を狭めた。





「あの部屋で、待ってます」

「……………」





必要なのは細心の注意だ。

どんな痕跡も残さぬよう、誰にも知られぬよう。

約束を取り交わすのに、携帯電話も、メールすらも使いはしなかった。



私たちは職業柄よく知っていた。

形に残る証拠が、どんな恐ろしいものか。























「今日は朝まで一緒にいられる」

「私は帰るぞ」

「つれないな、いいじゃないですか。たまにしかない機会です。帰さない。


どうせお宅は平気なんでしょう」




逃れようと御剣の腕の中でもがく。御剣は笑って離さない。



「べたつくな、御剣」

「どうして?」

「互いの歳を考えろ。こんな光景、傍から見たら異様だと思わんか」

「ここにはあなたと私しかいないのに」



いつものホテルの部屋。



「もっと楽に生きたらどうですか。楽しみましょう、人生を。

遅くは無いですよ、今からでも」

「くだらん、私はおのれの人生に満足している」

「完璧に?」

「ああ、完璧に」

「結構。何よりだ」



肉体以外に私たちに接点はない。

仕事についても人生についても生きた時代すら私たちは違いすぎた。



それでも――彼といると私は時々忘れることがあった。

検察官としての気の緩めない立場。

夫。父親。法の番人。



御剣のセックスと無遠慮な態度で、私はただ、私に戻る。

ほんのつかの間のことではあるが。





「何をしている?」



ぺちぺちと指を弾く耳障りな音に、私は戯れに含んでいた足指を口から離した。



「鳴らないんですよ」

「何が」

「指が。あなたのようにいい音が出ない」

「貴様には無理だ。あれはコツがいる」

「教えてくれたっていいじゃないですか、笑ってないで」

「指の置き位置がもう違う。空気を含ませろ」

「こう?」

「だめだ」

「おかしいな」



負けず嫌いの御剣が、眉間に皺を寄せて指を弾く。

その子供じみた姿に、私は久しぶりに声を出して笑った。



「ほら、今のはいい線行ったでしょう」

「甘いな」



手本を見せてやると、御剣は肩を竦めてそっぽを向いた。



「……ま、そのうち覚えてみせますよ」

「貴様には無理だ」

「やってみなきゃわからない」



……この男は、家族の前でもこんな幼稚な一面を覗かせるのだろうか。

それとも、彼もまた私の前では誰でもない御剣信でいるのだろうか。



悔しさ紛れに彼は内腿に手を這わせてくる。

正直、先ほどの交情で私は満たされていたが、つきあってやらぬ訳にもいかん。

歳のせいだなどと言われたくない。



昂ぶりに二人の肌が汗ばむ頃、場違いなメロディが愛撫の手を止めた。

密やかな部分を貪っていた御剣が跳ね起き、ブリーフケースを手に窓際へ向かう。



「ああ、うん。今まだ事務所。

 怜侍は?もう寝た?

 ――そう。たまにはゆっくりしてくるといいよ。

 お義母さんたちも寂しがってたでしょ。

 蛍?へぇ、そりゃ喜んだろうな。俺も見たかったよ。

 ――うん、うん。ちゃんと食べるよ。大丈夫」



ああ――そうか、もう盆なのか。

夏期休暇、帰郷した母子、蛍の飛ぶ川。

その代わりに父親は、夜景を見下ろす窓際に立っている。





ガラスに映るのは、知らない男の顔。


背後に映るのは、別の父親。


















…………一度だけ、彼の奥方を見たことがある。



事務員が休みだったのだろうか、わざわざ印紙を届けに出廷していた。

一目で判ったのは、親子三人の写真を見たことがあるから。



「御剣法律事務所です」



事務官と一緒に、たまたま通りかかった私は、高く済んだ声に振り返った。

見るからに幸福そうな、若く美しい弁護士の妻。





非の打ち所がない人妻の欠点を、必死で探す自分に酷く驚いていた。






















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DEAD MAN WALKING