「どうして来なかったんですか?」

「行かんと言ったはずだ」

諦めると思った私が甘かった。

裁判所で私の姿を見かける度に、御剣は馴れ馴れしく話しかけてくるようになった。

奴は大仰にため息をつき、

「いいでしょう、許しますよ。その代わり今夜、待ってますから」

「ちょっと待て」

「待ちましょう」

「なぜ貴様に許されねばならんのか理解できん」

「なぜなら貴方は私との約束を守らなかった」

「約束した覚えは無い!仕事だと言ったはずだ!」

「仕事に差し支えない程度で構いません」

「私が構う!」

「ははは、エレベーター直ってよかったですね。じゃまた今夜」

――今一瞬、人を殺せる気がした。







その夜も行かなかった。その次の誘いもその次の誘いも私は蹴り続けた。

やがて誘いも社交辞令じみ、私も奇妙な罪悪感

――大体なぜ私がそんな感情を覚えねばならんのだ――を

感じなくなり、自らの仕事に没頭していった。

その間も公判では何度か御剣と対峙したが、無論私から無罪を勝ち取れるはずもなく、

失望を隠す姿を見下ろすのは悪くない気分だった。

 

だが、確かに筋読みはいい。

人格的にはどうかと思うが、その若さを差し引いても弁護士としての腕は確かなようだ。

勿体無いことだ。司法修士時代に出会えていれば、なんとか口説き落として検察官に誂えたものを。


特に、法廷で向かいあうときの御剣のあの眼差し。

たとえ不利な状況でも真っ直ぐにこちらを見据え、迷いの無い、いい目をしていた。



私に取っては弁護士など小煩い蝿にすぎない。そして、生きのいい蝿が一匹目に入っただけのことなのだが。

 






















………その夜はたまたま刑事部の接待の帰り、繁華街を歩いていた。

たまたまだ。決して昼間のいつもの挨拶を覚えていたわけではない。

Bホテルの前を通りかかったのも偶然で、少し飲み足りなかったのも事実だ。


何の気も無しに立ち寄ったホテルのバーで、御剣に会えるなどとは毛の先ほども思わなかった。

 

ましてや、誰かを待っているなど。


週末の人出で賑わうバーに、場違いな男が一人いた。

ネクタイを緩め、眉間に皺を寄せてノートパソコンに向かい、右手に薄い水割りのグラスと、

左手にはポケット六法。そして何冊かの専門書。


「……迷惑な客だ。私なら追い出すところだがな。せいぜい営業妨害で訴えらんようにするんだな」

横に座ると、不愉快そうな顔で振り返り、そして私を認めて破顔した。


「やぁ、ようやく来ましたね」

「くだらん。実にくだらん。予告しておくが、10分で帰るぞ。私は」

「結構、まずは何か一杯」












――二時間後、終電は既に終わり、酒も私の許容範囲を超えようとしていた。

水割りからショットグラスに変えてかなり飲んだ気がする。

三十代の男と同じペースで飲むのはさすがにキツイものがある。

労働過多のせいか、定期検診でも肝臓の数値は芳しくなかったのだ。

これ以上酒を飲めば明日の仕事に差し支えるし、タクシーを飛ばせば帰って眠れる.

そうだ、そろそろ帰らねばならんのだな。

やや飲みすぎてしまったのは誤算だが。


「おい御剣、私はそろそろ」

「ま、硬いこと言わずにもう一杯」

「断る。貴様もその酒臭い面を洗って帰るがよい」

「狩魔さん。あなた、男が好きなんじゃないんですか?」

一瞬、目の前の男が何を言っているのか理解しかねた。

まるで、ワインの好みを尋ねているような他愛もない口調。

ついさっき前までは、持ち歩いている写真を見せびらかして愛息子の自慢をしていたというのに。

「な、何を突然……」

あまりの唐突さに否定するのも忘れ、私は立ち上がり掛けた腰を再び落とした。

幸い、今の言葉を聞きとがめたのは私だけで、バーテンダーも端のカップルと談笑している最中だった。

「いや、違っていたら失敬。なんとなくそんな気がしただけですから」

御剣はくつくつと笑い、バーボンの入ったショットをちろりと舐めた。

眼鏡越しの上目遣いに、私は来たことを後悔し始めていた。

あれほどしつこく酒席に誘ってくる理由を、最初におかしいと思えばよかったのだ。


「――侮辱するつもりなら私は行くぞ。貴様は酒を飲みすぎたようだ」

「待ってください。私は侮辱したつもりは無い。それに、まだまだ素面ですよ」

「ハッ、素面が聞いて呆れるわ。先ほどまでの気分が台無しだ」

「楽しんでいただけましたか。それはどうも」

「………………一体、何を根拠に言っておるのだ」

「腕を掴んだとき、体を離したでしょう。あの時になんとなく。

………判るんですよ、同類は。初めて見た時からそんな気がしていました」

法廷ですれ違う度に、奇妙な視線を感じたあれは気のせいなどでは無かったというのか。

妻子を持ち、名高い弁護士であるこの男が同性愛者だと告白している。

私に弱みを見せるとはどこまでも愚かな男だ。

口外すればこの男の社会的信用はゼロ。

私に楯突く優秀な弁護士を一人潰せる。こちらが否定すればいいだけの話だ。


なのに、なぜ――私は黙っているのだ。


「狩魔さん」

きっと酒を飲みすぎたせいだ。思考回路がうまく回らない。

御剣弁護士が乗り出すように身を近づける。

カウンターの下、膝の上にこの男の掌の重みを感じる。

蝿の吐息が私の耳朶をくすぐる。

「……上に、部屋を取ってあるんですよ。そちらで飲み直しませんか」


























……もしこの時、この男の誘いを断っていれば、誰の運命を狂わせることも無かっただろうに。

いや、ホテルに立ち寄った時点で既に運命の輪とやらは回っていたのか。

それ以前、私があのエレベーターの前で立ち止まった時からか。

それとも、それとも。





御剣との出会いと、束の間の蜜月。


その後、何度も反芻することになる苦く狂おしい時間


間違っていたことなど百も承知で、だが、どこから間違っていたのかは、今もって判らずにいる。























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