「狩魔検事、いくら待っていても来ませんよ」

 

名前を呼ばれ、私は陳述調書からゆっくりと顔を上げた。

すぐ横に男が立っていたことすら気づかなかったのだ。

「ほら、調整中って書いてある。たまには階段を使いましょう。まだお若いんですから」

見ると確かにエレベーターの扉には『調整中』という張り紙がされていた。

どうも来るのが遅いとは思っていたのだ。

「いつ気づくかとずっと見ていたんですが、さすがに10分も立ち続けだと気になって仕方ない」

口調に揶揄を感じ、気恥ずかしさを隠して私はその男を睨みつけた。

歳は私より一回り以上若いだろう。均整の取れた背広姿に弁護士バッチ。

よく通る声と視線のキツさも弁護士としては別に珍しくもない。



どこかで会ったことがあるのだろうか。


「それで貴様は10分間も眺めていたというのか。全く、弁護士というのは余程暇な職業と見える」

「常時百件前後の事件を抱えている貴方から見れば、まぁそうでしょうね」

「馴れ馴れしいな。貴様、どこの事務所だ」

「はははははははは!」

邸内に響くほどの笑い声を立てられ、ロビーに残っていた人間の視線が集中する。

「何がおかしい」

「参ったな。よほど私は印象が薄いと見える」

黒縁眼鏡に丁寧に後ろに撫で付けた髪型。均整の取れた長身以外は、特に特徴の無い男だ。

大体、弁護士の顔などいちいち覚えていられるものか。

「御剣ですよ、御剣」

「……………」

「たった今貴方と対峙して、敗訴したばかりの」

「うむ」

言われてようやく思い出した。

あの視線と語気鋭い弁護姿。

道理で顔を見ただけで不快になった筈だ。

「……あの、いちいち異議を唱えていた弁護士か」

「それは貴方も同じでしょう」

「くだらん。負け犬の遠吠えなど聞いていられるか。負けた分際で絡むとはいい面の皮だな」

さすがに気まずい。私は書類の束を脇に挟み、捨て台詞と共に踵を返した。

急ぎ足でエレベーターから離れた階段に向かうと、あろうことか、背後から全く同じテンポの足音が
聞こえてくる。


「なぜ、ついてくるのだ」

「私も階段を使いますから」

「暇人なら暇人らしくもっとゆっくり歩みたまえ」

「これからまた忙しくなります。控訴の手続きをしなければならない」

「無駄だ。やめておけ」

「無駄かどうかは法が決める。貴方の決めることじゃない」

「素人が。法律の専門家に愚かな反論をするな」

「私だってそうだ。貴方よりは若いが素人と呼ばれる筋合いは無い」

「若さが自慢か。愚かしいことだな」

「年齢が貴方の自慢ですか」

検察官と弁護士がもの凄い勢いで階段を降りてゆく。

老いた司法事務官が目を丸くして踊り場で立ち止まるのが視界の端に見えた。


一階のフロアが見えたところで、奴の足音が止まった。

私は勝利を確信して磨き上げられた床を踏み、振り返りもせずに玄関ホールへと。

「待ってください、狩魔検事!」

背中にあのよく通る声が叩きつけられる。

ふん、誰が待つか。馬鹿め.。

私は、ともすれば笑いそうになる膝をさらに急がせた。

「落としてますよ、書類!全部!」

………ふむ。そういえば、どうも、脇の下が涼しい。

証書の束を抱えた御剣が追いついて、私の肩をつかんだ。

馴れ馴れしい手を慌てて振り払い、ファイルを奴の腕からもぎ取る。

「貴様が急かすからだ!……よもや、中は見なかっただろうな」

「人聞きが悪いなあんたも。見られちゃ困るものはちゃんと持っていてください」

玄関ホールはさらに人の往来が激しく、周囲の視線がちらちらと痛い。

私とそのお節介な弁護士はしばらく息を整えていた。

なぜこんなところを、人目に曝さねばならぬのだ。

「……息が上がってますよ、狩魔検事。やはり貴方は普段から階段を使った方がいいようだ」

「いらぬお世話だ。礼は言わんぞ」

「結構。――で、どうですか。今夜一杯」

「……ちょっと待て」

「待ちましょう」

「なぜ貴様と飲み交わさなければならんのだ」

「私の名は?」

「馬鹿か貴様。御剣と名乗ったばかりだろうに」

「結構。人の顔を覚えない貴方が私の名を覚えた。私は貴方の書類を拾った。そして今日は週末だ。
他に何か理由が必要ですか」

「異議あり」

「聞きましょう」

「一つ、無礼千万な弁護士と酒を酌み交わして愉快な気分になれるとも思えん」

「決め付けは誤認起訴の元ですよ。意外と楽しいかもしれない」

「もう一つ。――暇な貴様とは違い、私は明日も仕事だ!」

 

脇をしっかり締め、私は表へ飛び出した。

ええいこの忌々しい若造め。どこまで食らいついてくるつもりなのだ。

「では明日では?」

「明後日も仕事だ!しつこいな貴様も」

「職業病なのでね、諦めてください。――では明々後日は?」

「その次もその次もその次の日も仕事だ!!」

御剣の目と鼻の先で指を弾いてみせる。

眼鏡の奥の目がぱちくりと瞬き、それから何が可笑しいのか笑いの形に歪んだ。

「………そんなに仕事熱心だと、事務官が嫌がりませんか?」

「私の知ったことか」

「いや、いい音だ。貴方は思ったより愉快な方ですね」

「貴様は想像以上に不愉快な男だな」

「はははは」

「クックックック……」

「はははははははは」

「フハハハハハハハハハ!」

「じゃ、今夜10時にBホテルのバーで」

御剣は勝手なことをほざき、くるりと背を向けて反対方向へ歩いていった。

「おい!私は行かんぞ!!

「構いません。待ってますから」

 明らかに矛盾した言葉を残し、御剣弁護士は立ち去って行った。

 その背中に異議を唱えることも忘れ、私は呆然と立ち尽くすしかなかった。

 ……酷い弁護士がいたものだ。
























 その夜、私は無論行かなかった。行くわけがない。










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DEAD MAN WALKING