「5870号、前へ」
今度の距離は短い。
二人の看守に両脇を支えられ、どこにも逸れぬ短い道を、吾輩は一歩一歩確実に死へと歩んだ。
扉の向こうはすぐに教誨室だった。
キリスト教式の粗末な祭壇の手前牧師がいた。
亜内検事がいた。執行人が揃っていた。
至るところに死の匂いがした。あの時のように。
その場にいる者皆の頭に、こびりついて離れぬ死の影があった。
この慎ましやかな舞台装置は、これは吾の葬式なのだ。
「遺書を」
警史が尋ねた。
「何も」
吾は答えた。
「告解を」
牧師が尋ねた。
「要らぬ。何も要らぬ。さっさと幕を閉じよ」
吾は答えた。
「狩魔――さん」
亜内検事が一歩前に出た。
刑の執行には、検察官の立会いが義務付けられている。
彼はこの事件に置ける私の担当検事であった。
御剣は――やはり来ぬか。
「お勤めご苦労様でした」
亜内検事は眼鏡の奥の目を真っ赤に充血させ、震えながら頭を下げた。
「法曹界に先生が与えた功績は――その……生涯忘れられぬ――」
裏返った声が途中から嗚咽に変わる。
私のための弔辞か。これは。
「泣くことはあるまい。――罪には罰を」
「私には解りません。
本当に、これでよろしかったのでしょうか」
「貴様には、辛い仕事をさせたな」
小刻みに肩を震わせ、亜内検事はしゃくり上げながら眼鏡の下を拭った。
捨てた家族の面会を断り続けた吾輩が、最後に出会うのがこの男とはな。
幇助ではなく、計画殺人。
幼児に罪を着せた悪質かつ残虐な反抗。
最後の筋読みは完璧であった。
終身刑で済まされるところを、ありとあらゆる罪状を並び立て、
極刑まで修めたのは吾輩の意思だった。
検事総長も検事正も今やかつての後輩たちで占められており、
最後の最後で検察官としてのキャリアが役立った。
死など今更――誰が恐れるものか。
刑務生活も飽きがきていた。
ちょうどいい。
教誨室の裏はもう絞首台だ。
かつて何度も立ち会った場所。
冤罪を声高に叫びながら、吾を呪いながら死んだ男も。
仏のような顔で死んでいった連続殺人犯も。
吾輩はこの目で見てきたではないか。
今更おのれの死が受け入れられぬわけがない。
警史が敬礼し、後ろ手に手錠を掛けて吾の目を白い布で覆った。
世界は牧師の祈りと、亜内が鼻を啜る音だけになった。
長いのか短いのかわからぬ数歩を歩かされ、
幾人もの首に巻かれたように、吾の首に太い縄が掛かる。
「祈りは口の中だけで唱えなさい。
口を開いていると衝撃で舌を切るからね」
執行官が耳元で囁く。
何も恐ろしくはない。
何も。
何も。
吾は長く生き過ぎた。
あの銃弾の後は、全て夢幻の如く虚ろな年月。
連れていけ御剣。
貴様を殺しおめおめと生き永らえた私を老いさばらえた私を嘲笑え。
死んだ後に一抹でも残るものがあるなら、どうか一目だけでももう一度。
震える膝が縛られた。
執行人が離れる気配がした。
祈りの代わりに、口の中だけでただ一つの名を呟き続けた。
「狩魔」
耳元で、ひどく懐かしい声が聞こえた。