「狩魔検事」


御剣に名を呼ばれ、私はふと我に返る。


「そろそろ戻りませんと、私は明日も公判が」

「うむ、もうそんな時間か」


給仕を呼び、会計を済ませるついで車を用意させる。


キャンドルライトの向こう、御剣の頬が微かに朱に染まっている。

先ほどのワインか、それとも昼間杖で打ち据えた痕か。


「本日はご馳走様でした」

「満足したか」

「それはもちろん。

 料理もさることながら、食後のエスプレッソが――とても美味しくいただいて」

「なぜ打たれたのか解るな」

「は」

「罪には罰を。――貴様の罪はなんだ」

「準備不足のまま、審理で敗れました」

「次は負けるな」

「わかっています」


今日の控訴審議会で御剣を叱責し、その慰めもあって久々の外食だった。

無罪判決を聞いて驚き、他の検察官の前で私は御剣を罵り続けた。

検察は完璧な縦社会だ。

この青二才のミスは、私自身の失態でもある。


それにしても――。

まだ経験は浅いが、御剣の手腕は確かだ。

なぜならそれら全ては私が彼に叩き込んだものであったのだから。

その御剣から、まさか二度も無罪判決を奪い去る弁護士がいたとはな。



御剣が杖を差し出し、それを支えに立ち上がる。

何、杖などは本当はいらぬのだが、腰に負担を掛けるなと医者が煩いだけだ。


姿勢正しい御剣は、それでも意外と酔っていたのか、タクシーに乗り込むと途端に膝を崩した。


「……少し、飲みすぎたようです」

「構わん」


肩を軽く引き、寄りかからせる。

庁舎の場所を伝えると、車は夜の繁華街を走り出した。


「………ありがとうございました」

「何がだ」

「いえ」


シートの上に投げ出されている彼の手が、私の指先に微かに触れている。

娘といくつも変わらない男の掌。

まだ瑞々しい肌の下、血管のように若さが縦横に走っている。

その横で、紙魚の浮いた、筋ばったの私の手が、時折走る街の灯に照らし出された。

私自身は十五年前で時を止めたつもりでも、身体の老いが止められるはずもなく、

若い肉体と並ぶ度に過ぎた年月を思い出す。




十五年――もうすぐ時効か。



時は一切を洗い流してゆく。

罪も心もそれは同じだ。

十五年前、この手で殺し損ねた子供が、死に損ねた私の生を皮肉にも永らえた。





復讐だった。

私を捨てた男の子供が、罪の意識に病みながら私に人生を学び、

私を敬うようになるその過程がすべて復讐。

その姿を見守る全能感が私を支えた。

御剣は欠けた父性を私で補おうと必死で、それを知っているからこそ、私はいつでも冷酷に振舞えた。

それとも、最初から、僅かばかりの罪滅ぼしの意識もあったのか――。



十五年前の感情の道筋など、あの頃の掌を思い出すが如く朧で不確かだった。



一人の男を死に至らしめた私の暗い情炎も、あの幸福も絶望も、長い年月の間に輪郭を失い、

思い出せるのはそのような情熱をかつて私が持ちえたということだけ。



そして罪を犯したという事実。

――これすらも、もうすぐ無かったことにされるのだ。



あの男が死んだ後も、私の人生は無情に続いてゆく。

出世とは無縁だが、定年過ぎても勤められたことは幸いだろう。

この肉体が保つのは、あと十年か、もう少しはあるのか。



ただ確かなことは、御剣は検察官として今ここにいる。

あれほど憧れた父親の後を継ぐとは言い出さずに。



私は、この結果に満足していた。

残された時間でできることは、私の全てを彼に伝え、私の完璧なコピーとして育てあげるだけだ。

そう――あの男の息子ではなく、この、私の。





御剣は眠っているのか、シートに深くもたれ、心持私に寄りかかるように頭を垂れていた。

長すぎる前髪が私の上着に触れ、閉じられた瞼の上に影を落としている。


容姿もあまり父親には似ていない。

どちらかというと、喪服を着た女の張り詰めた雰囲気をそのまま受け継いだような。

それが私にとって幸福なのか不幸なのか。



だが――こうして俯いていると、やはり父親の面影も見え隠れするようだ。

額の形と、唇の薄さ。眉間にすぐ皺を寄せる癖――



「真っ直ぐに――こちらを」



目を閉じたまま、御剣の唇が動いた。

眠ってはいなかったのか。



「何の話だ」

「成――今日の相手弁護人です」



薄く目を開き、記憶を手繰るように視線を膝に落とす。

酔っているのだろう。



「法廷で向き合う時の彼の眼差しが。

まだまだ素人で、酷く危なっかしい弁護なのですが、いい目を――していました」



普段ならば、こんな話を私に振ることなどこの男にはありえない。

相手弁護士を賞賛するなどと愚かな真似を。


御剣の口から、誰かを褒める言葉は初めて聞いた気がする。



「不利な状況でも、真っ直ぐこちらを見据えて。

迷いの無い目で」



――この男は気付いてない。

誰かを語るその熱を帯びた眼差しに、まだ形を成さない恋の色が滲んでいることを。

私がかつて気付かなかったように、御剣もまた気付いていないのか。

それとも私の穿った混乱か。

御剣を私の反復として育てた、その思い入れが導いた錯覚か。



恋は人を滅ぼす。

ましてや、弁護士が相手だなど、そんな愚かな真似は決して許すわけにはいかぬ。




「……どうやら貴様は酒を飲みすぎたようだ。

寝惚けたことをほざくな。弁護士などあいつらは蝿だ。

ちっぽけな存在にしかすぎん」

「――……申し訳ございません」

「だから貴様は甘さが抜けんというのだ」



抑えた声で詰ると、御剣はそれきり黙った。

姿勢を正して窓の外を見ている。

私ももう何も言わなかった。

だが脳裏に翻る風景がある。




あの日、私を残してエレベータを降りた御剣の後姿が、色鮮やかに記憶の底から蘇った。

それを伴う、身を焦がすような情熱も懼れもこの老いた体の下燻ぶっていたもの全てを私はああ、


たった今思い出した。





……御剣――御剣。

またしても貴様は私を残して立ち去るというのか。

親子揃って……過去に取り残された私だけを残し、貴様は何も言わず出てゆくのか。

許さん、許さんぞ御剣。



御剣。



――信、

――そしてその息子。

二人の面影が入れ替わり立ち替わり瞼の裏を赤く焦がした。




どちらだ?

もうどちらでもいい。

どちらでも構わん。

何度でも何度でも何度でも、


私のこの手で葬ってみせる。















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