アスピリンと抗生物質を水で流し込む。
出血は止まっていたが、代わりに一昨日から高熱が下がらない。構うものか。
数時間だ。数時間もてばそれでいい。
国際電話で喪服の場所を聞き出し、式場に辿り着いた頃には雨が降り出していた。
すでに読経は終りかけだった。
黒い塊が頭を垂れる先、祭壇の花の中心に遺影があった。
口を一文字に結び、真っ直ぐにこちらを向いたあの表情。
記帳を済ますと、青褪めた未亡人が近づいて頭を下げた。
いつか見た幸福そうな人妻は、数日の間にやつれ果てたのだろうか。
神経質そうに浮き出た頬骨に、油気もなくファウンデーションが粉を吹いていた。
「生前は主人が大変お世話になりまして……」
その言葉に一瞬、この女が何もかも見通しているかのような錯覚に襲われて眩暈がした。
いや、知るわけがないのだ。
この女が私と御剣の関係など知っているはずはない。
何の含みもない。これは儀礼的な挨拶だ。
「……この度はご愁傷様で……奥方のご心痛、察して余りうる……」
若い弁護士の死を悼む重く掠れた声が、女の悲しみをまた刺激したのか、
上げた顔にはたらたらと涙が流れていた。
「御剣先生にお別れを」
「こちらへ」
目頭をハンカチで押さえながら、祭儀中にも関わらず女は私を祭壇の裏へ導いた。
「間もなく――お別れですので、どうぞ主人の顔を見てやってください」
線香と菊花の匂いが立ちこめる中、錦糸の布と棺にくるまれて、御剣はひっそりと私を待っていた。
観音開きの小窓の奥で、彼は眠っていた。
神経質そうに少し眉間に皺を寄せ、それ以外は本当に穏やかに、今すぐ目を開いて私に笑いかけるかのように。
苦しまずに殺せた自分の腕が嬉しかった。
「綺麗なお顔をしてらっしゃる」
「本当に――それだけが救いです。主人が苦しまずに済んだことだけが、今は唯一の――」
「御剣、そろそろ目を覚ましたらどうだ」
私は棺に優しく呼びかけた。
勘違いした女が嗚咽をこぼし、「失礼」と慰問席に駆けていった。
最後の最後に、二人きりになれて好都合だ。
私はもうすぐ灰になる御剣の顔をじっと眺めた。
薄く施された死化粧は、皮一枚の下でもう腐敗が始まっていることを教えている。
鼻腔の奥に綿が詰められ、司法解剖を終え、暗い墓穴に詰められるのを待つだけの男。
何の後悔も無い。
物言わぬこの男は、いつにも無く無邪気で可愛げがあった。
「御剣」
「故御剣先生の御葬儀が執り行われるにあたり、御霊前にお別れの言葉を申し上げます」
祭壇の向こうで誰かが弔辞を読み上げていた。
私は腰を屈め、死に顔の映る窓に口づけた。
ドライアイスで冷え切ったガラスの向こうに静謐な死があった。
傷が引き攣れて肩が鋭く痛んだ。
「――こうした中で貴殿は温厚堅実な人柄と優れた論理性により、
弁護士として卓越した手腕を発揮され、殊に日本の法曹界に貢献された業績の偉大なことは、
今更私の贅言を要しないところであります――」
傷の奥に埋もれた鉛の玉が、じくじくと熱を発し疼く。
この弾丸は貴様だ、御剣。
我が肉の奥深くに穿たれ、人知れず錆びつき腐り果てこの身を滅ぼせばいい。
「――それではお別れでございます。私たちはここに、御剣先生のその偉業に対し、
心から尊敬と感謝を捧げ、謹んで先生の御冥福をお祈り申し上げます。
どうか、先生の御霊の安らかならんことを」
炎があの男の身体をねめる。
灰になるまで焼かれるとはどんな気分だ、御剣。
何もないのだろう。
お前はもう熱さも痛みも何も感じず何も考えず存在もしない。それが死だ。
そして残された私を灼く炎は、お前が熾きになっても燃え尽きることはないだろう。
せめて空に立ち上る煙でも見たかったのだが、最近の焼き場はそんな感傷も許さぬらしい。
会席を辞退し、式場のロビーで私は外の雨を眺めていた。
食事が喉を通らぬ出席者は他にもいたようだ。
グレイの風景、視界の隅に小さな影が張り付く。
「怜侍くん」
名前を呼ぶと、緩慢な動作で少年は振り向いた。
とっくに涙は枯れ果てたのか、張り付いた無表情さが一層痛々しく冬の雨に映えた。
「憎いだろう」
怒っているような、悲しんでいるような、
何もかもを諦めたような、
およそ子供らしくない表情を、少年は既に身につけていた。
おそらく、ここ数日の間に。
「君の父親を奪い去った犯人が憎いだろう。
罪には罰を報わなければならない。
だが君の父親は永遠に帰ってこない。
復讐したいだろう。
当たり前のように得られるはずだった、君の幸福を奪い去った犯罪者に」
「フクシュウ?」
幼子を抱き上げてやりたかったが、傷が熟んで私は立っているのがやっとだった。
薬が切れ掛かっていた。
「その意味が解るようになったら、私のところにおいで」
「おじさん、あの時の人」
D E a D M A N W A L K I N G