「遅れて申し訳ありません。

 ホールで平島先生に捕まってしまいまして」



 15分遅れで、鳴海は約束通り不定愁訴外来を訪れた。

 眼科の平島助教授の分厚い眼鏡を思い出す。

 優秀な病理医が東城大学を去り、研究力の低下を嘆いているとの話は聞いていた。



「いや、構いませんよ。それよりも」



 俺の呼びかけには応じず、鳴海は診療室を素通りし、勝手に奥の休憩室へと向かう。



「ちょ、ちょっと待ってください」



 俺は鳴海を追う前に、不定愁訴外来の扉を確認した。



『本日の診療は終了しました』



 の札を改めて確かめ、さらに内側から鍵をかける。




















リバーサイドの憂鬱
2章 結び目の、綻び

7月5日 金曜日 午後5時45分
1F 不定愁訴外来















「何か?」



 黒革の長椅子に腰かけ、鳴海はさっさと服を脱ぎ始めていた。

 俺は慌てて、くもりガラスをカーテンで閉ざす。

 布越しに忍び込んでくる、曇りの午後の柔らかい光に照らされた、むき出しの脚が眩しい。



 じゃなくて、



「何か? じゃありませんよ鳴海先生。

 あれから考えてたのですが、やはりこういうことはよくありません」



 並んで座り、外した先から鳴海のシャツのボタンを留めてゆく。



「着衣のほうがお好みですか」

「そういう話ではなくてですね」

「なぜですか?」



 鳴海は心底不思議そうな面持ちで、俺の顔を覗きこんだ。



「なぜ、と言いますと」

「私は田口先生とのセックスを心から望んで来ました。

 許可がいただけないというのでしたら、相応の理由を聞かせてください。

 交際なさっている方への気兼ねですか?」

「いえ、そんな人はいません」

「先日のセックスに何か不満があるのでしたら、

 ご希望に添えるように努めます」

「いえ、不満だなどとそんなことは」
 
「ならば、問題はないでしょう」



 表情を緩め、鳴海は俺を抱き寄せる。

 絡まる足に気を取られつつ、俺はなおも抗いを試みた。



「私は、仕事場では、このようなことをしたくないんです」



 しまった。


 これでは職場以外ならOKと言ってるようなものだ。

 しかし鳴海はまったく別の角度から、俺の矛盾を突いてきた。



「本当に嫌なら、看護師を同席させるはずです。

 わざわざ人払いまでして待っていてくださった。

 部屋に鍵をかけて、カーテンを閉めて、

 これは、セックスの可能性を示唆した上での行動です。

 田口先生は、ご自分の行動の意味が判っていないようですね」



 俺は鳴海とのセックスを前提にして、そんな行動をしていたわけではない。

 本当はそのはずなのに、鳴海と話していると、

 やっぱりどういうわけか、言われた通りであるような気がしてくる。


 ひょっとすると、とっくに術中にハマっているのかもしれない。


 反証の言葉を探していると、口を塞ぐように唇が重ねられた。

 白鳥の警告がちらりと頭を掠めたが、鳴海の顔が下がってくるにつれ、

 残っていた警戒心もどこかへ吹き飛んでしまった。



 息を吹きかけられただけで、むき出しにされたそれが過敏に反応するのがわかる。

 独り身の常としての、習慣的なマスターベーションすら、ここのところご無沙汰だった。

 頂上の際が見えてくると、あの時の鳴海の媚態がどうしても脳裏に蘇ってくるのだ。

 そのシーンで射精行為に至るには、俺本来の性志向からの抵抗が強すぎた。


 そんな苦悩など露ほど知らない鳴海は、反応に嬉しそうにくちづけてくる。



「洗浄済みなんですね。

 少し残念ですが、その心遣いが嬉しいです」



 その通り。

 鳴海の来訪に合わせて、俺はこそこそとシャワーを浴びておいたのだ。

 万が一のための尽力が無駄にならなかったことを、俺は嘆くべきなのだろうか。



 それとも、ここは安堵するところなのか。