病院から出ても、まだ雨は降り続いていた。
ビニール傘が弾く雨だれを憂鬱に見上げながら、俺はぼんやりと鳴海のことを考えていた。
今頃は車上だろうか。新幹線の中かもしれない。
と、携帯が鳴った。
ひょっとしたら鳴海かもしれないと考えた俺は、ろくに相手を確かめもせずに電話に出る。
「もしもし?」
『田口センセ、浮気はいけませんよお』
だが、電話の主は白鳥だった。
あまり、というか、なるべくなら聞きたくない声に後ろ暗いところをいきなり衝かれ、
俺は激しくうろたえた。
タイミングの良すぎる電話に、まさか白鳥がすぐ近くにいるのではないかと疑い、
傘と携帯を持ったまま左右をぐるぐる見回す。
「え、な、なんでそんなすぐにわかるんですか。
ま、まさか診療室に盗聴器でもしかけてあるんですか? それは立派な犯罪です」
『どうどう、田口センセ、落ち着いて』
「大体、あなたには奥さんもお子さんもいらっしゃるじゃないですか。
鳴海先生は一応お一人だし、あなたにそんなことを言われる筋合いはまったくありません」
きっぱりと告げた後、しばらくの沈黙の後に、納得するような白鳥の声が聞こえてきた。
『ははあ。 やっぱり弟のほうが先に潰れましたか』
その声で俺は悟った。
なんのことはない。白鳥は挨拶代わりに軽くカマをかけただけだったのだ。
俺は動揺のあまり、言わなくていいことまで口走ってしまったらしい。
「……今の言葉は全部取り消します」
『田口センセの声が聞きたくなって、たまに電話したらこれなんですもん。
本当にツレないですよねえ。流されやすいのも大概にしないと、いつか痛い目に遭いますよ』
痛い目なら、とっくに白鳥に遭わされた後だ。
『それにしても、田口センセにつけこむとは、さすが鳴海先生もハナが利きますね。
よっぽど弱ってたんでしょう。
でもね忠告しますけど、田口センセと鳴海先生じゃ、組み合わせとしては最悪ですよ。
互いにスポイルしあうだけです。あの人の本性は知ってますよね。
エゴイストの桐生先生だから、かろうじてバランスが保てていたんです。
間違っても、あの顔に惑わされちゃだめですよ』
携帯のこちらで黙り込む俺に、白鳥はすっとんきょうな声で畳み掛ける。
『え。 まさかもうやっちゃったんですか?
うわ、田口センセ、ずいぶん危ない橋渡りますねえ。
よりにもよって、鳴海先生とやっちゃうなんて……
なんて命知らずなんだろ』
「あの、やっちゃうとかやっちゃったとか、そういう言い方やめてください。
何を誤解しているのか知りませんけど、あなたが考えているような事実は一切ありませんよ」
『そうですか? なら、いいんですけどね。
あ、いけね。もう十円玉ないや。
それじゃ田口センセ、また。
くれぐれも、あの人はやめておいた方がいいですよ』
唐突に電話が切られ、雨音の静けさが耳に戻ってくる。
そんなこと言われたって、もう来週の予約を取ってしまった後だ。
白鳥の言葉を真に受けるわけではないけれど、
忠告をくれるのなら、せめてもっと早いうちに寄こしてほしかった。
どこまで誤魔化しきれたかは判らないが、白鳥に感づかれたことはあまりにもうかつだった。
しかも白鳥は、桐生たちのいびつな関係などとっくにお見通しだったようだ。
ひょっとしたら、俺が鈍いだけなのかもしれない。
来週の外来のことを考えると、つくづく憂鬱になってくる。
駅に向かう足を止めたまま、道の彼方へと続く闇に目をこらした。
一人ひっそりと傘を差し、雨の中を歩き続ける鳴海の姿が、夜の間に見えた気がした。
リ バ ー サ イ ド の 憂 鬱