「not bad.

 思ったより楽しめましたよ」




 軽いキスの後、こめかみから流れる汗を鳴海が拭ってくれる。

 取り出したハンカチで俺の手を拭こうとするのを制し、白衣のポケットからティッシュを取り出す。


 心地よい虚脱と引き換えに、じわじわと罪悪感が沸きあがってくる。

 強引に寝技に持ち込まれたのは、こちらのはずなのだが。


 その感情の原因のひとつに、俺は気づいて尋ねた。



「大丈夫ですか?」

「ええ、気持ちよかったですよ」

「というか、中に」



 これは、避妊を気にしないセックスに対しての不安感だ。

 いや、妊娠を気にする必要はないのだが、そのこと自体に不慣れなためになんとも心もとない。


 鳴海はああ、という顔をして、腰を浮かせた。

 ずるりと、抜けてゆく感触。


 そして萎んだペニスからスキンを外し、鮮やかな手つきで口を結ぶ。



「あれ?」



 装着した覚えが無いその物体に、俺は動揺を隠せなかった。

 覚えてない、ということは、鳴海が着けたのだろう。



 記憶を辿ってみたが、フェラチオの最中か、それとも挿入時か、

 どのタイミングで装着されたものなのかわからなかった。



「すごいですね。まったく気づきませんでした」

「安全性と薄さの両立に妥協しない、日本のコンドームは優秀ですからね」



 俺が感嘆したのは、鳴海の手技についてだ。

 そんなに器用なら外科手術ぐらいこなせるんじゃないですか、とうっかりこぼしそうになり、

 慌てて口をつぐむ。

 そんなことは冗談でも言っていいことじゃない。



 丁寧に後始末をすると、鳴海はさっさと服を着てしまう。

 明かりがつけば、そこにはもういつもの涼しい顔だ。

 俺も鳴海に倣い、シャツのボタンをもたもたと留めた。



「次の予約を取りたいのですが」



 俺の着衣を待たずに、鳴海が聞いてきた。



「え?」

「診療の予約です」

「また来るんですか?」



 呆れたような俺の口調を気にも留めずに、鳴海は笑顔で頷く。



「ええ、また来ます。

 田口先生は治療の途中で患者を放り出すような真似はしないはず。違いますか?」

「同性愛は病気じゃありませんよ」

「そんなことは当たり前です」



 怒ったように吐き捨てると、気を取り直して尋ねてくる。



「来週の同じ時間でいかがですか? もう少し早い時間がよければ合わせますが」



 冗談じゃない。夕方以前は藤原さんがいるのだ。


 勘のよさと独自の情報ネットワークを兼ね備えている藤原看護師と、

 うかつにも肉体関係を結んでしまった鳴海元・助教授を同席させるわけにはいかない。

 絶対に、だ。



「いえ、同じ時間で結構ですよ」

「無理を言って申し訳ありません。本日はありがとうございました。

 お陰で今夜はよく眠れそうです」



 儀礼的な感謝を述べると、鳴海はさっさと踵を返そうとする。



「ちょっと待ってください」



 俺はその背に呼びかけた。



「まだ何か?」

「本当に眠れないのでしたら、何かお薬をお出ししますが」

「結構です。必要なら自分で処方します」

「まぁ、そりゃあそうでしょうがね」

「でも、田口先生が処方してくださるというなら、そうですね」



 鳴海はズボンのポケットから、小さなクリーム容器を取り出し、机に置いた。



「それはなんですか? 喘息のお薬か何かでしょうか」

「中は空です。白色ワセリンが入っていました」



 時間差で意味を理解した俺を、鳴海は愉快そうに眺めていた。



「ホルマリンを扱う機会が多いせいか、保護しても肌が荒れるので困っているんです」



 いや、その建前は絶対にフェイクだ。

 コンドームといい、コイツはいつもこんなものを持ち歩いているのだろうか。



「……鳴海先生はなぜ、私を訪ねてくださったんですか?」



 一番最初の疑問をぶつけると、わずかな沈黙の後に、返事が返ってきた。



「陥落しそうなストレート男性って、なんとなく、判りますからね」



 俺は絶句した。


 鳴海の目的は、最初からそれだったというのか。

 セックス後の肉体的な疲労に加え、精神的な脱力感がずしっとのしかかってくる。



「それでは、また来週に」



 打ちのめされる俺を尻目に、鳴海は艶やかな笑みを浮かべて、診察室の扉を閉めた。




「お大事に」




 言い忘れた言葉を、俺は投げやりに扉にぶつける。










 後に残されたのは、冷めたできそこないの珈琲と、ティッシュの上に置かれた使用済みコンドーム、

 それと、空になった容器。



 後の二つは、病院で捨てることが躊躇われた。

 家に持ち帰って処分することに決めて、弁当の残骸と一緒に、コンビニ袋に詰めて口を結ぶ。

 なんとなく自分に罰を与えたい気分に陥り、すっかり冷たくなった泥水を、コーヒーカップに注いで一口飲んでみる。

 予想以上の苦味と渋味が、口いっぱいに広がった。



 うん、酷い味だ。




 気を取り直して、はだけたままになっていた白衣とのシャツのボタンをぷちぷち留めた。

 裸のわき腹に、赤く腫れた小さな痕を見つけた。

 オーガズムの際に、鳴海が指先を立てた痕跡だろう。

 なんだか猫に引っかかれた気分だ。



 濃すぎるカフェインを飲み下そうと四苦八苦していると、診察室のドアが乱暴にノックされた。

 返事を待たずに飛びこんできたのは、いつものアイツだった。



「聞いてくださいよ田口先生。今、外来ホールでレアな人に遭ったんですよ。

 誰だと思います?」



 今日ばかりは、そのタイミングとトンチンカンぶりを褒めてやりたい気分だ。

 兵藤は診察室の椅子に勝手に腰掛け、一方的にまくし立ててくる。



「なんと、バチスタ・チームの鳴海元・助教授ですよ。


 こんな時間にいったい何しに来たんですかね。

 やっぱり助教授の椅子が惜しくなったんでしょうか。気持ちはわかりますけど、なんせあんな事件の後ですしね。

 病理は教授もまだ若いし、今このタイミングで戻ってくるのは、得策じゃないと思うんだけどなぁ」



 無意識のうちに自分の経験を被せているのか、兵藤はなおも鳴海の仮想・権力闘争計略を勝手に組み立て、

 それを勝手に潰してゆく。



 そのおしゃべりが一息つくタイミングを見計らって、俺は切り出した。



「ところで兵藤、うまい珈琲が入ってるんだけど、飲むかい?」