「……で、なんであんたがここにいるんですか」



 招かざる客が俺の元を訪れたのは、やっと残暑が緩んできた頃だった。

 足を早めた午後の日差しが、くもりガラスを通して不定愁訴外来の部屋を照らしている。


 目の前にいるのは患者ではないのだから、ぞんざいな口調になるのもしかたない。

 久しぶりに姿を現した白鳥は、身構える俺に笑顔で文句を言った。



「相変わらずツレないですね、田口センセ。

 遠路はるばる訊ねて来たのに、珈琲の一杯も出してくれないんですか?」



 藤原さんは、災厄を避けるように帰った後だし、そもそも珈琲豆は俺の私物だ。

 なるべく長居して欲しくない客に淹れるお茶など、俺は持ち合わせちゃいなかった。



「今度は何の用なんですか?」



 つい口調に棘が混じってしまう。



 コイツが来るような不祥事は、何も起こってないはずなのだが。

 すでにこの顔が疫病神として刷り込まれている俺は、対峙しているだけで胸騒ぎがしてくる。

 俺にとって予定外の客が、いいニュースを持ち込んできたためしがない。



「用も何も、傷心の田口センセが、

 今頃どんなベソかいてるか、心配でつい来ちゃったんですよね」



 予約も無しに訪れた白鳥は、いきなりニコニコと俺の生傷を力いっぱいえぐった。

 不意を打たれ、俺は絶句した。



「な……」



 なぜ知っているのかと詰め寄りかけて、慌てて口を閉じる。

 白鳥お得意の、いつものハッタリだろう。

 うかつに挑発に乗り、また、余計なことを口走ってはたまらない。

 俺はできるだけ澄まして答えた。



「何をおっしゃってるのか、私にはわかりかねますが」

「またまた、強がっちゃってさ。

 あれだけ足しげく大阪に通ってたのを、ぱたりとやめちゃったら、

 そりゃ、終わりましたと言ってるようなもんでしょ」



 畳み掛けるような物言いに、俺は今度こそ動揺を隠せなかった。



「なんで、知ってるんですか」



 とうとう疑問を口に出してしまう。



「新幹線の……いけね。これはまだナイショだったんだ。

 そりゃあ、田口センセのことなら、何でもわかりますって」



 何かを口走りかけた白鳥は、とりなすようにへたくそなウィンクを寄こす。

 前よりは上手になったかに見えるが、相変わらず顔面神経痛の発作のようだ。



「新幹線が、なんなんですか?」

「しかし思ったより長引いたみたいですね。

 さすがの田口センセも、鳴海先生相手には逃げ出すのに手こずりましたか。

 だから最初からやめときゃいいって言ったのに」

「だから、なんで知ってるんですか? まさか、バラして回ったわけじゃないですよね」

「やだな、田口センセと僕との秘密じゃないですか。

 そんな野暮なことしないよ」



 情報元が気になったが、不審の塊の白鳥相手に、不審を追求してもしかたない。

 俺は目先の誤解を解くことを優先した。



「それに、私は逃げ出したわけじゃありません。

 あてずっぽうな憶測はやめてください」

「え? じゃあ、振られたのは田口センセのほうってわけ?」



 素っ頓狂な白鳥の声に、俺は慌てて人差し指を唇の前で立てた。

 白鳥は意に介さず、感心したように何度か頷く。



「へええ。 僕はてっきり、田口センセが耐え切れなくなったとばかり考えてましたよ。

 田口センセ、僕が思ってたよりもずっと辛抱強いんですね。なんだか見直しちゃいました。


 それともよっぽどアッチの相性が合わなくて、愛想つかされちゃったんですか?

 田口センセ、マグロですもんね。

 あ、もしかすると、結局元サヤに収まって、田口センセいらなくなっちゃったのかな?」



 俺はマグロじゃない。元サヤにも収まってない。



 不躾で遠慮の無い白鳥の物言いに、俺はぶち切れそうな頭を抱えた。

 同時に白鳥が知っているのが、鳴海と切れたというただ一点であることもわかり、やや安心する。

 秘めた感情の機微まで土足で踏み込まれたくはない。だいたい、俺一人の秘密ではないのだ。



 これ以上憶測でモノを言われてはたまらないので、なぜ白鳥が知っていたかはひとまず置き、

 俺はかいつまんで結果だけを話した。



 そしてすぐに後悔する。

 コイツにこぼしてしまうほど、打ちのめされているおのれの精神状態に気づき、そんな自分にほとほと嫌気が差した。









「……というわけで、私はもう、大阪には行きません」






 失恋話に白鳥は興味深く耳を傾けていたが、俺が鳴海の決意を尊重した旨を伝えると、

 呆れたようにぱたぱたと掌を横に振った。



「あー、ムリムリ。

 鳴海先生の体質は、そんな簡単に変わりませんって。

 あの歳までそうやって生きてきたのに、そんな簡単に生き方を変えられるわけがない。

 別の男捕まえるならまだしも、桐生先生の顔見たら、またすぐ元通りに戻っちゃいますよ」



 聞いた話だけで他人事のように語る白鳥に、さすがに腹が立ってくる。

 言い返そうとして、あの日ホテルに会いに行くと言った、鳴海の言葉を思い出した。



 一人で行かせたのは間違いだったかもしれない。

 ついそう考えてしまい、頭を振った。どの道、俺には関係ない話なのだ。



 鳴海はこれからも義理の兄と向かい合わなければならないのだし、

 何があってもそれは、鳴海が自分で選んだ結果だ。

 俺がどうこう気を揉む問題ではない。






 それに鳴海のあの悲痛な決意が、まったく意味の無いものだとは、俺にはとうてい思えなかった。






「田口センセに寄生してたほうがまだマシだったのに、鳴海先生も肝心なところで判断を誤りましたね。

 ま、それだと田口センセが潰れちゃって、共倒れかもしれませんけど」

「はたしてそうでしょうか。

 私はそうは、思いませんね」 



 むっとしてそう言うと、白鳥は鼻白んだ。



「まぁ、十中六、七、あの二人は元に戻るでしょう」

「白鳥さんにしては、ずいぶんと曖昧な数字のようですが」



 ロジカルモンスターが、曖昧な数字を持ち出すのは珍しい。

 俺の指摘に、白鳥は貧乏ゆすりを始めた。

 苛立ちを隠そうともせずに指先を突きつけてくる。



「あのね、田口センセは鳴海先生を買い被りすぎですよ。

 あの人は、センセが思ってるほどたくましい人間じゃない。

 溺れてる人間の目の前に藁があったら、川底に足がつくことを気づけない。

 本当に自立させたいと思うなら、最初から情なんかかけちゃいけません。


 引っ張るでもなく、突き落とすでもなく、

 田口センセのスタンスは、鳴海先生にとっては逆に残酷なんですよ」



 言い返そうとして俺はやめた。



 俺の立場は白鳥のロジックと相容れるものではないし、

 あるいは、白鳥の言う通りかもしれない。

 一人でいなければならない時期に、他人を求めてしまったのは、鳴海の弱さだろう。



 ――だが。

 もし、そうだとしても。



 たとえ何かにすがっても、

 どんな間違いを繰り返したとしても、



「……弱い人間だって、生きていかなくちゃ、いけませんからね」



 膝の深さで溺死する人間もいるし、少なくとも俺は藁じゃない。



 あの夏の日々の切実さは、向かい合った俺たちだけのものだ。

 真実よりも正しさよりも大切なものがこの世にはあると知る瞬間。



 ごまかしや偽りはあった。 ――鳴海はもちろん、俺にも。

 だが、心が重なり合った時間も確かにあったのだ。



 最後の日すらも、ただ互いを思いあっていたのだと、季節が変わった今ならわかる。

 おそるおそる絡ませて、やがてほどいた指と指。



 白鳥も、桐生すらも知らない時間が、俺たちにはあった。



「ま、田口センセならそう言うんでしょうね」



 言い切った俺に、白鳥は不満そうに唇を尖らせた。



「せっかく傷心の田口センセを慰めてあげようと思ってたのに、

 あーあ、なんだか白けちゃったな」



 俺はぎょっとして身構えた。

 これ以上、つけこまれてはたまらない。

 たとえ傷心だとしても、少なくとも白鳥に慰められるほど俺は落ちぶれちゃいない。



「ご期待に添えなくて申し訳ありませんね」

「ま、それならそれでいいんです。

 そろそろ落ち着いた頃かと思ったんだけど、

 のぼせ上がってる間は、何言ってもムダですもんね。

 せいぜい感傷に浸っていてください。

 淋しくなったら、いつでも僕が慰めてあげますから」



 油断の隙をついて、ぎゅっと抱きしめられる。

 別れ際に豊満な胸を押しつけてから、白鳥は来たときと同じように唐突に去っていった。

 まるでつむじ風だ。

 嵐の後の静けさに包まれた俺は、白鳥が本当に慰めに来たのだということを、

 いなくなってから理解した。






 そして、話したことで、少しだけ気分が晴れたことにも気づいていた。



 ……白鳥のお陰とは、決して認めたくないが。