リ バ ー サ イ ド の 憂 鬱 最 終 章
ひ ま わ り
マンションから出ると、夏の長い日が、すでに沈みかけていた。
心地よい風が、歩み寄る秋の気配をかすかにしのばせる。
「そのうちに、私の部屋にも遊びに来てください。
まぁ、布団くらいしかありませんけど」
再開発の工事現場を脇目に、駅までの遊歩道を二人で歩く。
反対側の植え込みでは、ひまわりが真っ直ぐに背を伸ばしていた。
工事の壁に閉ざされてもなお、沈みかけた日を惜しんでいるかのようだ。
いつもならば俺の前を行く鳴海が、やや遅れて着いてくる。
短い距離を惜しむくらいなら、引き止めてくれてもよかったのではないかと、
鳴海の強がりをいじらしく思った。
「そうだ。 麻雀も教えますよ。
速水や島津にも、声をかけてみます。
みんな忙しいので、いつ卓を囲めるかわかりませんが、あいつらもきっと喜ぶ」
「楽しそうですね」
「鳴海先生なら、すぐに覚えてしまいますよ。
どうか、お手柔らかにお願いしますね」
背後から聞こえてくる、鳴海の抑えた笑い。
先走っていた俺は、大切なことを思い出した。
麻雀より先に、来週が来るのだ。
せっかくの休暇だというのに、色々あったおかげで、まだ何の予定も立ててなかった。
「あの、鳴海先生。来週なんですが……」
呼びかけて、口ごもる。
こうなった以上は、さすがにいつまでも先生呼ばわりはおかしいかもしれない。
しかし、なんと呼べばいいのだろうか。
鳴海のどこか高貴な雰囲気が、俺に馴れ馴れしさを躊躇わせていた。
いきなり呼び捨てもわざとらしいし、『鳴海さん』というのも、なんか、違う。
『涼くん』などと言うのも、俺の地ではない。
急に砕けた口調で語りかけ、鳴海は引いたりしないだろうか。
それに今度こそ名前の由来も、教えてもらえるんじゃなかろうか。
そんなことをあれこれ考えていたせいで、鳴海が足を止めたことに俺は気づかなかった。
工事現場の裏手で振り返ると、鳴海が数歩の距離を置いてこちらを見ていた。
「田口先生、やはり見送りはここまでにさせてください。
これ以上行くと、離れがたくなる」
「それは構いませんが、本当に、お一人で大丈夫ですか?」
鳴海は答えず、ふっと微笑んだ。
「初めてお会いした時から、田口先生のような方が、
なぜ、お一人でいるのかをずっと考えていました」
「わ、私のことはどうでもいいじゃないですか……」
「今ならその理由がよくわかります」
俺がもてない理由に、鳴海がなぜこだわるのか。
今になって、そんなことを言い出す意味がわからずに、俺はうろたえた。
「田口先生」
暮れかけた夏の日差しが、深い眼差しを寄こす鳴海に陰影を落とす。
その瞬間も、俺はぼんやりと、細い手足や整いすぎた顔に見とれていた。
だから、わからなかったのだ。
「何もかも許してしまうということは、何一つ許さないことと同じなんですよ」
鳴海のその言葉が、はたして俺に向けられたものなのか。
あるいは桐生か、それとも自分自身に向けた言葉だったのか。
「――田口先生には、本当にお世話になりました。
義兄にはいつか折を見て、真実を伝えておきます。
彼は大人ですから、何も無かったように接してくれるでしょう。
あなたへの信頼も揺ぎ無いはず」
残る違和感が形をあらわす。
その言葉を聞いてようやく俺は、鳴海の具体的な返事を聞いてないことに気づいた。
俺と桐生、両方を部屋から追い出した理由もわかってしまう。
俺か桐生、どちらかではなく、
鳴海の選択は、すでに決まっていたのだ。
「……桐生先生と別れたので、私はお払い箱というわけですか」
おそらくは――俺と桐生が鉢合わせ、鳴海の嘘が破綻した時には、もう。
いや、それより前だろうか。
俺が別れを切り出したときに、鳴海は何かを諦めてしまったのか。
「そうです。僕はあなたを利用していただけだ。
――どうか、そういうことにしておいてください」
「あなたも、ずるい」
「知らなかったんですか?」
「一人で憎まれ役になって、そうすれば、丸く収まるとでも思ってるんですか」
下手な悪役ぶりを責めると、鳴海の笑みは見る見る苦しげなものへと変わる。
悪党は、もっとふてぶてしく笑うものだ。
こいつが言葉どおりに薄情な男だったら、あるいは、芝居がもう少し巧みだったなら、
俺は迷うことなく踵を返せただろう。
けれど、追い詰められた鳴海は、ひどく脆い。
俺の目には、満身創痍の、ぼろぼろな立ち姿が映っているだけだ。
「やはり私では、だめでしたか」
俺の問いに、鳴海は首を横に振った。
聞いてるこちらが悲しくなるような、切なげな声を絞り出す。
「田口先生が僕の人生にいてくれたら、どんなに素晴らしいことか」
「なら、どうして」
「夕べは、夢をみました。
あなたの腹を、生きたまま裂く夢でした」
辺りは静かだった。
聞こえてくるのは、鳴海の声と、夏を惜しむ虫たちの鳴き声だけだ。
「……同じことを繰り返しても、しかたないじゃありませんか」
反論しようとした俺に、鳴海はそっと腕を伸ばしてきた。
俺は目を閉じた。
指が、あんなに触れあった指が、俺の瞼に触れる。
キスをされるのかと思ったが、違っていたようだ。
「私なら大丈夫です。
あの人が結婚したときも、この右手が壊れたときも、
どんな悲しみも、今まで乗り越えてきた。
今度だって、耐えられないはずはない。
誰かに寄りかからなければ、立っていられないのは、もう嫌なんです。
僕は自分の足で、自分の道を歩いていきたい」
自分に言い聞かせるような声は、ビブラードにかすれながらも
確かな決意を秘めていた。
鳴海は指の背で、俺の頬を柔らかく撫でた。
限りない慈しみをこめたぬくもりに、束の間、慰められる。
ほんのひと時。
鳴海はすぐに身を離し、俺に向かって微笑んだ。
そして、優雅な一礼。
「田口先生、本日で診療は終了です。
長いこと本当にありがとうございました」
「………鳴海先生」
「どうか、振り返らずに行ってください。
あなたの栄光は、これからも続いていく。
さようなら。
――いつまでも、お元気で」
俺の目の前で鳴海は背を向け、今来た道へと歩き始める。
足取りは少しずつ速くなり、角を曲がる頃には走り出していた。
遠くなってゆく足音を聞き遂げてから、俺は最後の風景を仰ぎ見た。
それから、すっかり覚えてしまった道を、駅に向かって歩き出した。
引き止めることも、追いすがることも、俺にはできたはずだ。
新幹線の窓に映る自分の影を眺めながら、俺は桜宮に着くまでずっと考え続けていた。
あの広い部屋で、一人涙する鳴海を思うと、やりきれなさが胸を衝く。
残酷な夢の話も、あれは詭弁で、鳴海なりの気遣いかもしれない。
所詮は同床異夢。何度褥を重ねたとしても、夢の中までは入っていけないのだ。
旅行を断った仕事の都合も、あるいは鳴海の嘘だったのかも。
鳴海の惧れや重ねた嘘に、思い当たる節は耐えなかった。
だが、俺の気がかりはたった一つ。
本当にあの男が、これからの長い孤独に耐えられるかということだった。
脆さゆえの強がりが、いつか鳴海自身を打ち砕くのではないかと、
懸念と未練が、ない交ぜになって後ろ髪を引き続ける。
引き返したくなる衝動が訪れる度に、俺は抗った。
鳴海は、差し出された手を二つとも振り払い、やっと一人で歩き出そうとしていた。
俺にできることは、あなたは一人じゃ生きられないと、抱きしめてやることじゃない。
手を差し伸べるより、ただ、見守るだけのほうがずっと辛いこともある。
鳴海が本気なら、俺は見届けるしかない。
でもそれには力が要る。
俺は信じた。
鳴海と、鳴海の未来を、信じた。