どれだけそうしていたのか。
静かになった鳴海が、やがて、顔を上げた。
目は泣き腫れ、顔中が涙でぐしょぐしょになっている。
俺は慌ててティッシュの箱を取った。
紙を引き抜くと、コンドームが一緒にこぼれ出た。
どこかが引っかかってるらしい。
こんなとこに隠すなよ、と内心で毒づきながら、濡れた顔をちり紙で拭う。
鳴海は泣き笑いの顔になり、自分でティッシュペーパーを抜いて、小さく鼻をかんだ。
「……いい歳してって、思ってるんでしょう」
「まさか。感情表現が豊かで羨ましいくらいですよ」
「嫌味ったらしい」
「鳴海先生ほどじゃないです」
「そう?」
泣き疲れた様子の鳴海は、ぼんやりと天井を見上げた。
そして、ため息混じりにぽつりとこぼす。
「やはり、あなたに相談してよかった」
やっと聞けた鳴海の本音に、俺は改めて最初の問いをぶつけた。
「なぜ、私を訪ねてくださったんですか?」
「………耐え切れなくなったんです。
自分で決めたことなのに、
義兄から離れて、毎日、毎日、頭がおかしくなりそうで」
三ヶ月での離脱症状を、長く保ったと、思うべきなのか。
「体調や精神状態の悪化は、病理診断にも影響を及ぼします。
支障が出ては困るので、カウンセラーを探そうと思いました。
――その時に、田口先生の顔が思い浮かんで」
鳴海はこちらに視線を戻す。
至近距離で潤む目に見つめられて、俺はどきりとした。
「理屈では通らないこともあると言っていたあなたなら、あるいは」
……どうも例の一件以来、他人に買い被られすぎている気がしてならない。
高階院長はまだしも、氷室や白鳥まで、いったい何の理想を俺に投影しているというのか。
まさかこれから先、この調子でずっと誰かに無理難題を押しつけられるんじゃないだろうな。
未来を憂いていた俺は、肩にかかる重みで我に返った。
鳴海がゆっくりと頭を預けてくる。
「最初から、本当のことをおっしゃってくれればよかったのに」
俺のぼやきに、鳴海は唇を尖らせた。
「言えるわけないじゃないか。
自分で決めたことに、耐え切れなくなったなんて」
「おかしなことじゃ、ないと思いますけどね」
「そう?」
「そうですよ」
そうすれば、こんなややこしいことにはならなかったはずだし、
他に手の打ちようがあったかもしれない。
少なくとも、全裸で隠れているところを見つかるようなハメには、陥らずに済んだはずだ。
苦い顔をする俺に構わず、鳴海はぽつりと呟いた。
「……でも、田口先生はずるいな」
「え。 なぜですか?」
「弱ってる時に、あんなことを言われたら、誰だってすがってしまう」
困った。
何を言ったのか、まったく思い出せない。
どんな言葉を告げたにせよ、あんな風に鳴海に襲われる筋合いは無いのだが。
「田口先生とおつきあいなさる方が、正直羨ましいです」
「え?」
コンドームをこっそりティッシュケースに戻していた俺は、
鳴海の言葉で我に返った。
「嘘でも嬉しかったな。
田口先生の言葉」
「嘘?」
「義兄に向けて頭を下げた時の」
俺はずっこけた。
しまった。
これは真っ先に確認しなければならなかったことなのではないか。
「田口先生が、お芝居が上手で本当に助かりました」
「な、な、何言ってんですか」
「迫真の演技に、義兄も全く疑いを挟まなかったですし」
「ちょっと待ってください。
あれ、本気じゃなかったんですか?」
「本気だったんですか?」
今度は鳴海が動揺する番だった。
肩から頭を離し、驚いた顔で俺を見ている。
俺も愕然としていた。
「私はあなたと違って、ああいう場面で嘘をついたりしません」
「だって、別れたがっていたじゃないか」
「あれはあの時の判断で……今は、その」
「それに、あなたは元々ストレートの人間だ。
僕なんかに本気になるはずがない」
「あんた、バカですか」
俺は立ち上がって、思いっきり吐き捨てる。
「好きでもなきゃ、わざわざこんなとこまで毎週、通うわけないだろう!」
あーあ。
とうとう言っちまった。
ついに思っていることと、言っているセリフが一致してしまう。
しかも、よりにもよってこのタイミングで、このセリフ。
これを愛の告白にカウントするなら、間違いなく最悪の部類だ。
さっきの慰めだって、俺にしてみれば精一杯の思いの丈だというのに。
鳴海はまだ俺の言葉を、外来の延長か何かだと勘違いしているのだろうか。
届いてなかったとしたら、これだけ恥ずかしい思いをした甲斐が無い。
鳴海はぽかんと俺を見ていた。
が、やがてとんでもないセリフを口にする。
「僕は、こう見えて、セックス好きですよ」
「な、何を言い出すんですか」
何を今さら。
鳴海の意図が掴めず、俺はどぎまぎした。
精力的な意味で、俺ではNGということなのだろうか。
「……………知ってますよ。そんなこと。
これでも精一杯、努力はしているつもりなんですがね」
小さな声でぼやき、そして俺もつけ加える。
「私は、こう見えて、おつきあいする相手は大切にしますよ」
「知ってるよ。そんなこと」
今度は鳴海がぼやく番だった。
「じゃあ、問題は無いんじゃないですか」
頭を掻きながら、長椅子に座り直す。
一人で先走った自分が、なんだか馬鹿みたいに思えてくる。
ちらりと鳴海のほうを窺うと、戸惑いと恥らいの入り混じった表情を、繊細な指で隠していた。
うぬぼれでないとすれば、頬に赤みが差しているのは、涙の名残だけではなさそうだ。
「信じられない」
鳴海が呟く。
「そんな――嘘みたいだ。 田口先生が、僕を」
躊躇いがちに目を合わせると、鳴海が抱きついてきた。
なんのてらいも気取りも無い、真っ直ぐな抱擁だった。
「嬉しい」
呟いた鳴海に、そのまま長椅子に押し倒される。
「夢みたいだ」
「それは、何より、です」
天井を見上げ、目を白黒させながら、おずおずと鳴海の背に手を回す。
お世辞にもスマートとは言えない告白が、どうやら無駄では無かったことに、
俺の胸もいっぱいになっていた。
これからのことを考えると、心配にならないわけが無い。
でも、気持ちを認めてしまったことで、楽になっている自分にも気づく。
これで桐生に気兼ねしなくてすむ、という部分も、少なからずあるのだろう。
託されてしまったんだ。しかたあるまい。
遠距離だし、同性だし、何度もやり直せるほど二人とも若くはない。
鳴海も俺も、お世辞にも素直とは言えないタチだ。
元・天才の扱いにくさは、この数ヶ月で身にしみた。
これからの道のりを思うと、気が遠くなってくる。
だが、こいつと二人なら、退屈だけはしない。
それならきっと、そう悪いものでは無いはずだ。
「きっと、大丈夫ですよ。なんとかなりますから」
俺は、鳴海と俺自身に、言った。
胸の上で、鳴海も頷く。
「ええ。
私も、そう信じます」
俺がティッシュケースの中のコンドームに思いを馳せていると、鳴海がゆっくりと身を起こした。
まるで宝物を扱うように、名残惜しげに俺の顔を両手で挟み、優しく囁いてくる。
「……田口先生もそろそろ、お帰りになったほうがいいでしょう」
窓の外からは、カーテン越しに夕日が差し込んでいる。
確かにそんな時間ではあったが、俺はまだ鳴海が心配だった。
「しかし、お一人で大丈夫ですか。
なんでしたら、明日の朝一の新幹線で帰ることもできますが」
「私は大丈夫です。
駅までお送りしましょう」
そう言って、鳴海はソファから降り、さっさと身支度を始めてしまう。
あっさりした様子に拍子抜けしたが、鳴海も一人で考える時間が欲しいのかもしれない。
名残惜しいのはこちらも同じだが、来週には休みが取れる。
遠出は無理でも、二人でのんびり過ごすことができる。
そんなことを考え、柄にもなく弾んでいる自分が、なんだかくすぐったかった。