「「「あ」」」






 玄関先には、三人の男を前に立ちすくむ、宅配便業者の姿があった。

 チルド宅配便の箱を脇に抱え、今まさにチャイムを押そうとする姿勢で固まっている。



「あの、ハンコか、サインお願いします」



 鳴海はサインと引き換えに、発泡スチロール製の箱を受け取る。

 そして、面食らったようにしげしげとそれを眺めた。



「思ったより大きいな……」

「なんだそれは」

「これは義兄さんにあげるよ」

「だから、これはなんなんだ?」

「ほら、急いで。タクシーが待ってる」



 旅行トランクの上にチルド便の箱まで持たされ、急かされた桐生が扉の外に消える。

 箱を開けたときに、大量の明太子を前に唖然とする姿が目に浮かぶようだ。




 階下まで見送るかと思えば、その背中が廊下の端に消えるのを待たずに、鳴海は扉を閉めた。












 閉じた扉を前に、俺と鳴海は同時にため息をついていた。

 思わず顔を見合わせると、鳴海がかすかに微笑む。

 俺はうろたえて目を反らした。



「……何も帰すことは無かったんじゃないですか?

 桐生先生もお疲れなんじゃないでしょうか」

「こういう時は、これでいいんです。

 三人で顔を突き合わせていても泥沼になるだけですから。

 義兄にも、物事を受け入れる時間が必要です」



 別の意味でも、修羅場慣れした対応だ。

 俺が感心していると、鳴海の瞳がかすかに翳る。



「それに――」

「それに?」

「いえ、なんでもありません。

 今頃、義兄はせいせいしていると思いますよ」



 とてもそうは思えない。



「……ひょっとして、最初から私と桐生先生を、鉢合わせるつもりだったんですか?」



 俺の疑問に、鳴海は肩をすくめて笑ってみせる。



「まさか。さすがにそこまで悪趣味じゃない。

 だいたい、僕の指示通り動けば、逃げ出すことだってできたはずだ」

「……私は逃げませんよ。

 だいたい、なんで何もやましいところが無いのに、隠れなくちゃならないんですか」

「田口先生の口から、そんな言葉が出るとは思いませんでしたよ。

 あんなに他人に知られるのを恐れていたのに」



 逆に保身深さをちくりと責められ、俺は二の句が継げなかった。

 鳴海はふっと表情を緩める。



「……義兄とはいずれ会わなくてはと思っていたけれど、

 よもや空港から直接来るとはね。しかも、このタイミングで」



 桐生が消えた扉に、ちらりと複雑な視線を送ると、

 鳴海は踵を返してリビングに戻る。

 ほとんど手つかずの珈琲を下げる姿を見守りながら、俺はソファに沈みこんだ。






 どっと疲れた気分だ。

 鳴海に言わなければならないことが多すぎて、何から切り出せばいいのかわからない。

 額に手を当てたまま、キッチンの鳴海に声をかける。



「……本当にあれでよかったんですか?」

「義兄なら大丈夫でしょう。

 彼には姉もついていますから」

「そうではなくて。

 あれでは、桐生先生は誤解したままですよ」



 鳴海の苦しみを桐生は知らない。

 知っていれば、あんなにあっさり引き下がったかどうか。



 戻ってきた鳴海は、俺の対角――桐生のいた席に座ると、シニカルな笑顔をこちらに向けた。



「そんなに義兄の評価が気になりますか?」

「それは、あなたでしょう」



 鳴海の笑みが、すっと引いた。

 黙りこむ鳴海に、さらにたたみかける。



「鳴海先生。あなたは私に嘘をついていたんですね。

 桐生先生から連絡が無いと言ってたが、実際には逆だった」

「それは……そのほうが、あなたの同情が引けると思ったから……」



 鳴海は、なおもふてぶてしい笑みを作ろうとしていた。

 だがその表情はあざとすぎて、隠しきれない痛々しさを逆に際立たせる。



「嘘をついていたことは、もう、いいんです。

 それよりなぜ、そこまでして桐生先生を避けていたんですか?

 桐生先生もあんなに心配されて――」

「本当に俺が心配だったら、とっくに来ているはずじゃないか」



 激しい口調で、鳴海が吐き捨てた。

 桐生に告げられなかった感情が、まだこの男の中でわだかまっている。



 フロリダとの距離と、桐生の多忙さを、誰より理解しているのは鳴海のはずだ。

 けれど鳴海は、わかった上で、それでも桐生を待ち続けていたのかもしれない。


 来るはずのない桐生が、自分の元に訪れることを。



「でも、桐生先生は来た。

 あんなに、苦しんでまで――」

「今さら何を言ってるんだ……」



 苦しげに息をついた鳴海は、視線をゆっくりとローテーブルに移した。

 ガラスの灰皿に残る灰。桐生の残したものがそこにあった。



「彼を解放しろと言ったのは、あんたたちじゃないか――」






 いや、それを言ったのは俺じゃない。白鳥だ。一緒くたにされては困る。

 訂正する間も与えず、鳴海はソファから崩れ落ちてローテーブルにすがった。

 そこに残る三本の吸殻が、先ほどまでいた男の痕跡のすべてだった。



「こうするより、しかたないじゃないか。

 あの人はプライベートだけなら、僕より姉を選ぶ人だ。

 そんなことはずっと昔から知っていた。僕は最初からわかっていた。

 なのに、なのに――」 



 目を見開き、鳴海はおのれの右手を見た。

 開かれた指が震え、何かを掴もうとするように曲げられる。



「それでも、この手が動かない限り、

 彼は僕を見捨てることができない」



 俺は何も言えなかった。

 開いた眼に浮き上がった涙がこぼれ落ち、煙草の灰を黒く染めて崩した。



「それなら――こちらが手を離すしかない。

 彼が僕を捨てられないのなら、こうするしかない」



 血を吐くような、鳴海の声。

 流れ落ちる涙も拭わず、その手が卓に爪を立てる。






「僕はもう、なにものにもなれない。

 あの人に必要とされる価値もない。


 僕にはもう、彼にしてあげられることが、これしか無い――」









 鳴海はいつから、声を立てずに泣くことを覚えたのだろうか。

 それは、涙を誰に知られずに済むために、身につけたすべなのか。



 震える肩を抱いても、鳴海は逆らわなかった。

 ただ、静かに涙を流し続けていた。








 十年に渡る恋の重みを、俺は知らない。

 失ったものの大きさを、俺に測れるはずもない。

 もがき苦しんでまで、自ら身を引いた鳴海の痛みを、

 わかると言えば、嘘になるだろう。



 それでも今、言わなくてはならない言葉は、目の前にある。

 そして、それを言えるのは、この場に一人しかいない。






「あなたは、あなたのままで、もう充分じゃないですか。

 どうか、そのままの鳴海涼でいてください」






 そう言った途端、端正な顔が歪む。

 堪えきれない嗚咽が、噛み締めた唇から溢れた。


 なだめるように肩を叩くと、鳴海が両手で顔を覆う。

 苦しそうに息を継ぎながら、もう届かない叫びがその口を衝く。






「ずっと一緒だと言ったのに――。

 何があっても、決して見捨てないと、言ったのに――!」






 義兄さん――、義兄さん――と、子供のように泣きじゃくる姿を、

 俺は静かに見守った。



 この嘆きが桐生に届くことはない。

 届けば、あの男は振りほどけないだろう。

 鳴海もそれをよくわかっていたのだ。



 今にも過呼吸を起こしそうな、鳴海の背中を優しくさする。



「ずっとお一人で抱えこんで、辛かったでしょう」



 肩を震わす鳴海に、はたして俺の声が届いているかどうか。

 いや、届いていなくたって構いやしない。



 俺にできることは、ただ寄り添い、この痛みを聞き遂げることだけだ。 






「私がそばにいますから。

 あの方の代わりにはなれませんが、

 私なんかでよければ、鳴海先生の望む限り、ずっと一緒にいますよ」






 発作のようなむせび泣きが、少しずつ治まってゆく長い時間の中で、

 俺はただ、鳴海のためだけに、その傍らに座り続けた。