どれだけ時間が流れたのか、再び顔を上げたときには、
桐生は、いつもの毅然とした表情に戻っていた。
コキュのみじめさなど、この男には無縁のものだ。
「……そういうこととは知らずに、失礼しました。
正直びっくりしましたが、田口先生なら、私も納得することができる」
「本当に私なんかで、よろしかったんですか」
俺の言葉は、桐生と同時に、横の鳴海へとあてたものだ。
そちらを伺う隙を与えず、桐生はまっすぐに右手を差し出した。
「リョウが選んだ方なら、私にとっても家族同然です。
こちらこそ、リョウのことをよろしくお願いします」
とまどいながらその手を握り返すと、桐生は両手で力強く俺の掌を包んだ。
そして、思い出したように付け加える。
「しかし、それなら何も、隠れることは無かったのでは……?」
おっしゃる通り。
桐生のもっともな疑問に、俺は弱りきった笑みを浮かべるしか無かった。
鳴海が始めから俺を隠そうとしなければ、こんなややこしい事態にはならなかったというのに。
恨みがましく鳴海を見ると、しれっとした顔で俺と桐生の間に割って入る。
「義兄さん、ホテルは?」
桐生は首を横に振る。
当然だろう。おそらく、桐生はこの部屋で鳴海と過ごすために来日を早めたのだ。
俺と飲むためにわざわざ出向くと言ったのもあれは、
桜宮が、シンポジウム会場と鳴海の住所のちょうど中間地点にあたるからだ。
鳴海は桐生に新幹線駅前のホテルの名を伝えると、携帯からタクシーを呼んだ。
追い出すようなその手際にぎょっとしたが、桐生は気に留める様子もなく、
桜宮病院の様子などを親しげに俺に尋ねてくる。
「高階院長はお元気ですか?」
「相変わらず転がされっぱなしです。
あの人だけは、腹の底がうかがえませんよ」
桐生は笑った。
だが、煙草を持つその指が、かすかに震えているのことに俺は気づいていた。
泳ぐ桐生の視線が壁の病理画像を伝い、若い俺の写真に止まる。
少し淋しそうに、桐生が微笑む。
それを見なかったふりをして、俺は努めて普段どおりに言葉をつなげた。
「フロリダはいかがですか?」
「ええ。一からのスタートで、どうなることかと思いましたが、
やはりアメリカなら、私の経験を活かすことができる。
これからの若い医師たちが、希望を持てる道を作っていきたいですね」
力強い桐生の言葉。
鳴海が悲しげに、それでも誇らしそうに、桐生の背後で微笑んでいた。
この男の前に真っ直ぐ続いてゆく道に、もう鳴海はいないのだ。
上辺の談笑を楽しむ間もなく、インターホンが鳴った。
応対した鳴海が、タクシーが階下に着いたことを桐生に教えた。
桐生は何本目かの煙草をもみ消すと、虚をつかれたように立ち上がった。
「……後で会いに行くから」
伏し目がちに促す鳴海に、桐生は静かに頷き返す。
玄関までの短い見送りまでの間、誰もが無言だった。
靴を履いた桐生が、俺に向き直る。
「リョウのことを、よろしく頼みます」
改めて託され、俺はうなずいた。
桐生は鳴海に視線を移し、その肩に手を置いた。
「辛い思いをさせたな」
鳴海は驚いたように目を見開き、唇をかすかに震わせた。
何かに耐えるように瞼を閉じる。
「いいんだよ、義兄さん」
ゆっくりと瞼を開け、昔と変わらぬ眼差しを桐生に向けた。
桐生は最後まで懐の深い、鳴海の義兄だった。
そして、おそらくはこれからも、この男は完璧な義兄であり続けるのだろう。
はたして、本当にこれでよかったのか。
俺の逡巡を知ってか知らずか、何かを断ち切るように桐生が扉を開く。