さすがにいい歳した大人同士だ。出会い頭に掴み合うような事態にはならなかった。



 そもそも俺と桐生、ある意味どちらも被害者と言えよう。

 加害者は、もちろんコイツ。鳴海だ。



 茫然自失の桐生が、やっと呟いた言葉は、



「……とりあえず、服を」



 の一言だった。









 五分後のリビング。

 きっちり服を着こんだ俺と桐生は、L字型のソファの対角に腰掛けていた。

 さっきから二人とも無言のままだ。



 急に桐生が立ち上がる。

 何事かと思えば、旅行トランクの脇に置かれた、紙袋を手に戻ってきた。

 そして、それを俺に差し出す。



「……お会いした時に渡そうと思っていたのですが」



 ずしりと重い袋には、横文字で書かれた免税店のマーク。

 どうやらフロリダ土産らしい。



「開けてもよろしいですか?」

「ええ、もちろんです」



 中にはヘネシーの箱が入っていた。

 桐生は、俺が家では酒を嗜まないことを知らないのだ。

 さらに、衣料品らしきものも同梱されている。


 広げるとそれはTシャツで、

 カトゥーン調のドラゴンが、

 地球で玉乗りしながらグレープフルーツとオレンジでお手玉している絵が描かれていた。


 ドラゴンはウィンクしながら火を噴くという離れ業までこなしており、

 口から吐かれた火が、燃えながら『Florida』の文字を象っている。

 おそろいの柄のアロハシャツも入っていた。



 ……派手だ。いつ着たらいいんだ。



「これは結構なものを。どうもありがとうございます」

「……先ほどは、お見苦しいところをお見せして申し訳ありません」

「いえ、それはその、お互いさまということで……」



 裸で隠れていたところを見つかった俺も気まずいが、

 睦言を聞かれ、義弟との関係を知られた桐生も気まずい。


 俺を連れ込んでいることを桐生に知られ、嘘がばれた鳴海はもっと気まずいだろう。



 気まずさではお互い様と思えば、ほんの少しだけ気分が楽になる。

 だからと言って、これっぽっちも状況が好転したわけではないのだが。






 微妙な空気が流れたところに、やっと鳴海が戻ってきた。


 部屋着に着替えた鳴海は、湯気が立つ珈琲カップを三つ、トレイの上からローテーブルに移す。

 やや表情を緩めた桐生が上着に手を入れると、鳴海はすかさず灰皿を取り出した。

 桐生の目の前にそれを置くと、ごく自然に彼の横に腰掛ける。俺のほうは見ようともしない。



 並んだ二人を見て、改めて思う。

 悔しいが、相変わらず絵になる義兄弟だ。

 陽性と陰性の違いはあれど、それぞれがある種の華を持って生まれてきたのだ。

 ひょっとするとそれは、互いを補い合うためかもしれない。



 義兄弟の前に並んだ揃いの珈琲カップを見て、今まで俺にあてがわれていたものが、

 ゲスト用のカップだということをようやく思い知らされる。

 立ち上る紫煙。勝手知ったる桐生の様子。おそらく、この部屋に訪れるのは初めてではないのだろう。



 それが何を意味しているか、今の俺にはよくわかる。


 この部屋で、異物は俺のほうなのだ。



「……それで」



 苦りきった様子で、桐生が口を開いた。

 鋭い視線が、俺に投げかけられる。



「これは一体、どういうことなのでしょうか」



 どういうことなのか、訊ねたいのは俺のほうだ。



「それは……」



 俺はちらりと鳴海を見た。

 鳴海は、悪戯が見つかった子供のように、ふて腐れた様子で俯いたままだ。



 ――つかれた嘘を、この場で糾弾するのは簡単だ。

 だが、それではあまりにも鳴海の立場が無い。



 鳴海の意図はわからないが、あの苦しんでいた姿までが演技だとは、俺にはどうしても思えなかった。

 なぜ、そこまでして、わざわざ桐生を遠ざけるような真似をしていたのか。



 何も答えられずに黙っていると、鳴海がやっと口を開いた。

 俺にではなく、隣の桐生に。



「姉さんは元気?」

「ああ。――お前を、心配していた」

「心配、ね」



 鳴海が、ふっと息をついた。

 そのやり取りを見て、桐生の帰還前に高階院長から聞いた話を俺は思い出していた。



「そういえば、あれからご再婚なされたんですか?」



 俺の素朴な疑問に、桐生は言葉を詰らせた。

 険しい表情に、微妙な戸惑いが入り混じる。



「………ええ、まぁ、そのような、感じに……」



 珍しく言葉を濁らせる桐生の横で、鳴海が皮肉っぽく唇の端を吊り上げる。



 しまった。



 責めるつもりは無かったのだが、何も今、このタイミングで切り出す話題ではなかった。

 しかも鳴海の目の前で。



 それにしても、前の妻とよりを戻してなお、日本に残したその弟と関係を続けるとは――。

 とやかく言える立場では無いが、あまりにも複雑にもつれた糸に、薄ら寒いものすら感じてくる。



 同性だとか、よりにもよって妻の弟に……とか、そんなことは問題じゃない。

 ここまで深い業と絆を結んでしまう二人を、引き合わせてしまったこの世の不条理にだ。



 いや、あるいは、それが条理か。






 ――結局のところ、俺に手を出した理由も、姉と再婚した桐生へのあてつけなのだろうか。



 口を閉ざす鳴海を前に、俺のぼんやりとした思惑は、否応がなしにそこに焦点を絞ってしまう。

 腹立たしさよりも、脱力感を覚えた。




 不倫も、同性愛も、擬似近親相姦も、好きにすればいい。

 しかし、第三者――少なくとも俺を巻き込まないで欲しい。



 黙りこむ俺を前に、桐生が重々しく口を開く。



「田口先生、申し訳ありません」

「は?」



 急に頭を下げられ、俺は驚く。

 ここは俺を断罪する場ではなかったのか。



「どうやら、リョウが大変なご迷惑をかけてしまったようですね」



 いや、まぁ、その通りだが。

 ぽかんとする俺を前に、桐生は続けた。



「田口先生が清廉で、信頼に値する方だということは、私がよく知っています。

 おそらくは――」



 桐生はちらりと、鳴海を見た。鳴海の身が強張る。



「私とリョウが、このような不適切な関係にあるなど、思いも及ばないことだったのではないでしょうか。

 ご存知無いまま、リョウに、その――リョウと」



 少し違うが、大体合っている。



 言葉を濁したのは、さすがに本人たちを前にして、

 誘惑したのされたのだのを、言いはばかったためだろうか。



 どうも桐生は俺の沈黙を、義兄弟の秘密を知ったショックだと解釈したらしい。

 俺に対する評価は買いかぶりすぎだが、いい誤解ならあえて解くこともない。



「お察しの通り、私たちはフロリダ時代から肉体関係にあります。


 出逢った頃から、ずっとリョウには淡く惹かれていました。

 タカをくくっていましたが、恋愛感情を自覚した時には、

 もう取り返しがつかないことになってしまっていました。


 周囲にバレないように関係をコントロールするのが精一杯で、

 妻からはチームを解消するように忠告されました」


「あの、そんなに詳しく解説していただかなくても結構です。

 おおよその察しはつきましたから」

「そうですか」



 俺の制止に、桐生はほっとしたような表情を浮かべる。



 桐生の自分語りは、始まると長い。

 相手に伝わるようにすべて説明しなければと、考えてしまう性質なのだろう。

 俺だって、寝た相手の別の恋について、そんな詳細に聞きたくない。



「田口先生には、ご迷惑ばかりかけて申し訳ありません。

 ひとまずこの場は、私に任せていただだけないでしょうか。

 ……リョウには、私からよく言って聞かせますから」



 桐生が俺に頭を下げる。

 遠まわしに、二人だけにしてくれと言っていた。



「そうですか。

 では、お言葉に甘えて」



 安堵と喪失感がごちゃ混ぜのまま、俺はソファにへばりついていた腰を上げた。

 俺たちの誤解がある程度解けた今、ここに居残る理由も無い。



 もう、この部屋を訪れることは二度と無いだろう。






 俺は、鳴海を見た。

 鳴海も、俺を見ていた。



 桐生の横で、傷ついた少年のような目で、こちらを見上げている。






 なぜ、そんな目で俺を見るんだ。

 どう考えても傷ついたのは、俺や、桐生のほうじゃないのか。



 泣きたいのなら、いくらでも桐生に慰めてもらえばいい。

 兄弟ごっこでもなんでも、勝手に続ければいい。

 俺といる時だって、いつもどこか淋しそうだったじゃないか。






 ……あんなに焦がれていた桐生と、やっと会えたのだから、

 最後くらい、もっと嬉しそうな顔が見たかった。






 せめて鳴海に嫌味でもぶつけてやろうと、

 睨みつけてやるつもりが、俺の顔は勝手に笑顔を作っていた。



「――桐生先生にお会いできて、よかったですね。

 それじゃ、私はこれで」






 一礼する俺の前で、空気が揺れた。






「待ってくれ」






 俺の言葉を遮り、鳴海が立ち上がっていた。