なぜ、桐生がここに?



 飛び込んできた桐生の声に、俺は動揺を隠せなかった。

 シンポジウムは来週で、来日までにはまだ間があるはず。

 そもそも、あれほど避けていたはずの鳴海の元に、どうしてよりにもよってこのタイミングで現れたのか。



 どういうことなのか、問い質したいのはこちらのほうだ。



 反射的に飛び出したくなる衝動を、ぐっと堪える。

 なぜならバスルームから真っ直ぐ寝室に押し込まれた俺は、一糸まとわぬ全裸だったからだ。


 この格好で今出て行けば、何の言い訳もできないだろう。

 いやその前に、俺にだって最低限の尊厳ぐらいはあるはずだ。

 せめて着替えと一緒に放りこんでくれていればと、少しばかり鳴海を恨んだ。



 俺が隠れていることなど露も知らず、桐生はなおも鳴海に畳み掛ける。



「答えてくれ、リョウ。 

 メールは届いていたのか? なぜ、電話にも出なかったんだ。

 いったい、どれだけ心配したと――」



 怒りと、心痛を秘めた桐生の言葉。

 その意味を理解して、俺の頭は一瞬真っ白になった。



 桐生から連絡が来ないと、鳴海はあれほどまでに打ちひしがれていたのではなかったか。






 ――まさか。






 俺が盗み聞きしていることを知らない桐生が、鳴海を前に嘘をつくはずもない。






 ということは、答えは一つ。

 事実は、逆だったということだ。











リバーサイドの憂鬱
第7章
二重混線













 途端に、抱えていた違和感が氷解していく。

 あの桐生が、鳴海をそう簡単に見捨てるとはどうしても思えなかったのだ。



「……義兄さん、それは」



 つまり鳴海が、桐生を避けていた。

 だが、いったい何のために?



 俺の混乱をよそに、義兄弟は何やら真剣に話し合っていた。

 桐生の戸惑いは響いてくるが、応える鳴海の声は小さく、何を言っているのか聞き取れない。

 もちろん俺を気にして、ということもあるのだろうが。



 寝室から首を出して、開いた扉越しにリビングを窺う。

 途端に目に飛びこんでくる、ソファにもたれた桐生の背中。

 その肩越しに、鳴海と目が合った。






 目を見開いた鳴海は、桐生に抱きつくふりをしながら、

 俺にだけ見えるように指先と唇で、
『寝室・に・戻れ』と、合図を送ってきた。

 その上で、顎先を向かいの書斎へ向けた。



 意味が掴めず首を捻っていると、掌を軽く開いた後、かすかに頷いてみせる。

 あれは、
『この場は・任せろ』ということだろうか。



 それから思い出したように、掌を垂直に顔の前に立て、片目を瞑った。

 あのジェスチャーは、俺にだってわかる。



『ゴメン!』



 のサインだ。



 …………。



 鳴海は、あれで謝っているつもりなのだろうか。

 さらに腹立たしいことに、一連の動きは、こんな時にでも優美そのものだった。






『間違っても、あの顔に惑わされちゃだめですよ』






 白鳥の警告の意味を、ここに来て俺はやっと理解する。

 さながら優雅なシャム猫。

 ――ただし、とんでもない性悪猫だ。






 メルトダウン寸前の俺は、その場に崩れ落ちそうになった。

 だが、鳴海を問い質すのはとりあえず後回しだ。

 今見つかれば、一番立場が悪いのは、間違いなくこの俺だ。

 全裸で『鳴海に騙された』などと主張したところで、間男の言い訳にしか聞こえないだろう。



 実際、今の俺の立場を表現するとすれば、


『単身赴任中のはずの夫が、急に帰ってきた時の間男』


 そのものだ。






 オーケー、ゴーだ。



 鳴海のアイコンタクトに、ひきつった顔で頷き返す。頭をひっこめ、そろりそろりと寝室へ後ずさった。

 長い抱擁から開放された桐生の声が、その頭上に被さってくる。



「……少し痩せたんじゃないのか。 ちゃんと、食事は摂れてるのか」



 労わりに満ちた桐生の声。

 ソファが小さくきしむ音。



 そして、沈黙。



 開閉音を恐れてわずかに開いたままの扉から、リビングの気配がかすかに伝わってくる。

 改めて寝室を見回した俺は、鳴海のジェスチャーの意味を理解した。



 リビングへの扉以外に出口は一箇所、バルコニーに通じる窓だけだ。

 なるほど、そこからならバルコニーを通って、隣室の書斎へと移れるかもしれない。

 桐生の背中越しにリビングを横断するよりは、見つかるリスクが少なくて済む。



 ……その後に鳴海が桐生を寝室に連れこめば、少なくとも俺の逃走経路は確保されるというわけだ。

 胸中は複雑だが、桐生の目から俺が逃れる道は、他に無い。



 鳴海の示した切除範囲、もとい逃走範囲の指示通り、俺はカーテンを掻き分けて窓の外を窺う。

 そして、音を立てないように、静かに窓を開いた。



 途端に、ごぉっという風が吹き込み、カーテンを大きくはためかせた。

 30階のビル風を甘く見ていた。その風に煽られ、わずかに開いたままだった扉が音を立てて閉まる。

 しまった。ちゃんと閉めておくんだった。



「なんだ。誰かいるのか?」



 桐生の声。万事休すか。



 俺は逃げるようにバルコニーに裸足を踏み出しかけ、一瞬躊躇う。

 俺自身のリスクマネジメントセンサーがオンになっていた。

 ようするに、いまいち鳴海の言うことを信用できなくなっているのだ。



 もし、書斎の窓に鍵がかかっていたら?

 その時は桐生に見つかるか、下手すれば30階のバルコニーに閉じ込められる。しかも俺は全裸だ。

 近隣の住人にも通報されかねない。


『殺人鬼の次はハレンチ講師!? T城大学付属病院、またまたお騒がせ!!』


 そんな三文誌の見出しまで脳裏に浮かんでしまう。

 ワイドショーでは、先日の記者会見の様子が、ここぞとばかりに再利用し尽されることだろう。

 飛び降りたところで、ダイイングメッセージを残す余裕もなく、俺は木っ端微塵だ。



「義兄さん!」



 近づいてくる足音が、鳴海の制止で一瞬止まる。



 ええい、ままよ。



 保身センサーがとっさに働き、窓から身を翻し、扉横のクローゼットの戸を開く。


 その間わずか数秒。


 ハンガーにかけられた鳴海のスーツの間に身を滑らせ、クローゼットを静かに閉めるのと、

 桐生が踏み込んできたのはほぼ同時だった。