三人で、という提案は蹴られてしまったが、これで少なくとも鳴海に気兼ねなく桐生と会うことができる。

 あとは飲みすぎて余計なことを口走らないように気をつけるだけだ。



 鳴海はまだ何やら考えているようで、憂い顔のまま黙りこんでいる。



「鳴海先生、お腹は空いてませんか」



俺が声をかけると、はっと顔を上げ、鳴海は申し訳なさそうに切り出した。



「抄読会の担当が近いんです。今日は部屋で過ごしてもいいでしょうか」

「もちろんです。しかし、お忙しいところに、お邪魔してしまってよろしかったんでしょうか」

「私が田口先生にお会いしたかったんです。

 こちらこそ、あまりお構いできないのに、お呼び立てしてしまって申し訳ありません」



 書斎にでも篭るのかと思えば、鳴海はプリントアウトした英語論文の束を、リビングのローテーブルに積み上げた。

 これを全部読むつもりなのかと思うと気が遠くなる。



「私も仕事を持ってくればよかったかな」

「……田口先生もご多忙なんですね。少しお疲れにも見えます」

「雑務ばかり増えてしまって、困ったものです」



 俺の肩に圧し掛かる、委員長の名文が二つ。

 週末を確実に空けるため、残業と持ち帰りの仕事は増える一方だった。

 だが、学会明けに会った、あの鳴海の弱りきった姿。

 あれをもう一度見るくらいなら、日常の忙殺などため息をつくほどのことでもない。

 外来の長椅子で眠りに就く度、俺は自分にそう言い聞かせていた。



「もしお邪魔なら、外で時間を潰してきますが」

「邪魔にはなりませんが、退屈でしょう。田口先生のお好きにどうぞ」

「では、そばにいてもいいですか。なんせ外は暑いので」



 俺の言葉に、鳴海は微笑んで頷いた。









 英語論文に目を通す鳴海の横で、読みかけの文庫本を開いたり、小さな音でテレビを観たりして過ごす。

 俺はやはりどちらにもあまり集中できず、先ほどの鳴海の態度ばかり思い返していた。



 冷たい仕打ちを受けてもなお、桐生を慮るくせに、俺に見せたかすかな落胆。



 執着しろというのだろうか。この関係に。

 海を挟んだ距離を置いて、桐生を想い続ける鳴海に。

 桐生なんて忘れろと、俺ごときが言えるはずもないというのに。









 惰性で夕方のニュースを観ていると、間の悪いことに、例の移植シンポジウムに話題が移った。

 パブリシティの一環なのだろう。名医と呼び名が高い心臓外科医が、インタビュアーの当たり障りない質問に愛想良く応じている。

 本来ならばあの場にいるのは桐生か、あるいは鳴海だったのかもしれない。



 目のことさえなければ、経験を積んだ40代など、外科医としてもっとも脂がのっている時期のはず。

 鳴海の歳ならなおさらだ。

 若く美しい天才外科医が、圧倒的な技量で医学界に君臨する。

 桐生は何度、その瞬間を夢見ていたことだろうか。



 チャンネルを変えるのもわざとらしく、俺は鳴海の様子を横目で窺った。

 鳴海は書類から顔を上げ、大した興味もなさそうにテレビ画面を眺めている。

 こちらの視線に気づくと、英語論文を放り出して、長椅子に横になった。

 ごく自然に、俺の膝に頭を乗せてくる。

 その指先に目を滑らせながら、俺は尋ねた。



「恨んでいないんですか」

「誰を」

「あなたが失った夢を」

「あれは元々僕の望みじゃなかった。

 彼が与えてくれた世界を、彼が失くしたからといって、恨む筋合いはないでしょう」



 鳴海がそう答えざるを得ないことを、俺は知っていた。

 代わりに、桐生が自分を責め続けていることも。



 それでも高みを仰ぎ続けた望みの深さも、

 俺が想像だにし得ない境地を、二人が垣間見ていたことも知っていた。

 桐生のメスが鳴海を傷つけさえしなければ、その旅は今も続いていただろう。






 それに比べれば、俺が与えてやれる日常など、比較する意味すら持たない小さなものだ。






 気がつけばシンポジウムの話題はとっくに終わり、番組内容は締めくくりの天気予報へと移っていた。

 明日も変わらぬ暑い一日になるらしい。俺はうんざりして脇のリモコンに手を伸ばした。



 股間に違和感を覚えて視線を落とすと、膝に頭を乗せたままの鳴海が、俺のズボンのジッパーを下げていた。



 唐突な質問から何かを感じ取ったのかもしれない。不安と性衝動とがどこかで結びついてしまっている。

 チャンネルをバラエティ番組に変えながら、俺は文句を言った。



「そういうことは、ちゃんと相手の了承を得てからにしてください」



 鳴海はきょとんと俺を見上げ、それから引っ張り出したペニスを元通りしまい、ジッパーを上げた。


 膝枕はそのまま、俺たちはしばらくの間、くだらないバラエティを黙って眺めていた。









 やがて、膝の上の鳴海が、ぽつりと口を開く。



「いやらしいこと、したくないですか」



 テレビ画面から目を離さずに、俺は答えた。



「したいです」