周囲の視線がいっせいに、悲鳴の元に集まる。

 その先には、喫茶店の軒先、タイル貼りの床に伏した男性の姿があった。



 やや肥満気味、歳の頃は五十代後半位か。

 先ほど俺たちをじろじろと眺めていた、夫婦と思しき中年カップルの片割れだ。

 いくらなんでも、まさか俺たちに当てられたからというわけではないだろう。

 悲鳴は、それを抱き起こそうとする、女性の側から発せられたもののようだ。



 反応は、鳴海のほうが早かった。



 俺が異変に気づいたときには、すでに鳴海は駆け出していた。

 ギャラリーより早く近寄り、揺さぶる妻の手を止め、倒れた身体をひっくり返す。

 呼吸を確かめると、鳴海の顔色が変わった。

 黄色のシャツを乱暴に開き、顎を上げさせて気道を確保する。

 一連の動作を続けながら、激しい口調で脇にいる中年女性に詰問した。



「既往症は?」 



 が、連れ添いは見るからにパニックに陥っている。

 鳴海の問いには答えず、寝かせた身体を再び揺さぶろうとしているのを見て、俺は慌てて割って入った。



「この方は、何か持病などはお持ちですか」



 女性はぜいぜいと喉を鳴らしながら、それでも早口で何事がまくし立てた。

 きつい関西弁の間から、「お父ちゃん、胸、あかんかってん」という言葉をかろうじて聞き取り、鳴海に伝えた。



「呼吸無し、心停止状態。パッチ無し。

 奥さんは119番を。CPR実地と伝えて。 

 田口先生はAEDをお願いします」

「え……ED?」

「駅にあるはずです。急いでッ!」



 細い腕が、たるんだ肉に力強く沈み、機械のような正確さでマッサージを繰り出す。



 そうだ。ぼんやりしている場合じゃない。AEDだ。

 救命措置を始める鳴海を尻目に、俺は人をかき分けかき分け、全速力で地下鉄への階段に走った。

 こんな日に限って、革靴なんか履いてくるんじゃなかった。







 慣れない全力疾走に呼吸を乱しながら、階段を駆け下りる。

 駅備え付けの自動体外式除細動器は、切符売り場のすぐ脇にあった。

 荒い息を吐きながら扉を開くと、けたたましいアラーム音が響き渡った。

 すぐに、若い駅員が何事かと駆け寄ってくる。



「すぐそこで……男性が倒れて……」

「そりゃ、大変だ」



 上がった息で来た道を伝えると、オレンジのバッグを取り出した駅員が俺の代わりに走り出した。

 まるで、命がけの駅伝だ。

 よろよろとその後を追うと、すでにギャラリーが人垣を作っていた。

 AEDを受け取った鳴海はすぐに、首に下げた金ネックレスを外させ、裸の胸に電極パッドを貼り付ける。

 音声指示が、心電図計測を経て、除細動措置の必要を教える。



「下がって!」



 通電ボタンが押されると、電気ショックに伴い、倒れた体が一瞬硬直を起こした。



 鳴海の対応はさすがに堂に入っていた。

 コイツのこんな真剣な眼差しを見たのは、いつぞやの手術室以来だ。



 救急車を呼んだせいか、連れ添いの女性も、先ほどよりは落ち着きを取り戻しているようだ。

 身に着けたTシャツに描かれた豹の目が、集まるギャラリーをじっと睨みつけていた。



「大丈夫ですよ。彼は立派なお医者さんですから」



 安心させるべくそう声をかけると、涙を浮かべた目が、祈るようにきつく瞑られた。

 俺の後ろに立っていた小柄な老女が、つられて小声で呟く。



「いけめんや。医者に見えへんがな」



 俺は心の中だけで、そのお年寄りの言葉にこっそり同意した。









 2004年から一般市民の使用も許可されたAEDだが、認知度はまだまだ高いとは言えない。

 必要なのは勇気なのだが、倒れた人間を前に、すぐに心停止の可能性を疑える市民はなかなかいないだろう。

 ただ転倒しただけかもしれないと、手出しすら躊躇する人間のほうが多いのではないだろうか。



 幸いなことに通りかかったのは医者で、しかも鳴海の前身は心臓外科だ。

 修羅場慣れした鳴海がいてくれて助かった、 という安堵感は、俺も同じだった。






 やがて、待ち焦がれたサイレンが近づいてくる。 

 体感時間としてはひどく長く感じられたが、時計を確認すると八分しか経っていなかった。

 鳴海が救急隊員に患者を引き渡す様子を見て、俺もほっと胸を撫で下ろす。



 国順の専門医が通りかかるという、まれな幸運に恵まれた患者だ。きっと助かるだろう。

 安堵に額の汗を拭っていると、鳴海が駆け寄ってきた。

 そして俺の手首を掴み、耳元で小さく囁く。



「走って」



 俺がはいともいいえとも言わないうちに、鳴海は俺を引っ張り、野次馬の間を縫って走り出した。