観覧車の提案は鳴海に冷たくあしらわれ、帰りの新幹線までの時間を、駅近くの飲み屋で潰すことになった。

 結局はいつものおっさんデートに落ち着くわけだが、最初の一杯を傾けるときの充実感は、

 日中の過ごし方に大いに左右される。

 つまり全くの無駄では無かったと、俺はそう考えることにした。



「今日はありがとうございました」



 さすがに疲れたのか、無口になっていた鳴海が、ぽつりとこぼす。

 時間と酒量を気にしていた俺は、一瞬何のことだかわからなかった。



「いえ、こちらこそ。おつきあいくださってありがとうございました」

「本当は観光になど興味なかったのでしょう?

 ずいぶんと気を遣わせてしまったようですね」

「そんなまさか。単に私が行きたかっただけですよ。

 鳴海先生がご一緒してくださって助かりました」



 俺の意図など、鳴海は大方お見通しのようだ。

 動揺した俺は、小さな本音も漏らしてしまう。



「……それに、たまには夏らしいこともしないと、

 日々の繰り返しで季節が埋もれてしまいますから」



 頭を掻いてごまかす俺を、鳴海はじっと見ていたが、

 やがてぽつぽつと口を開き始めた。



「――今まであまり、休日ということを意識したことがありませんでした。

 米国でのレジデンシー時代から、バチスタチームの解散まで、

 心臓病理に追い立てられるような日々を過ごしてきました。

 急に休みが与えられても、戸惑ってしまうんです。何をすればいいのかわからない」



 それに加え、今までは桐生がいた。

 鳴海が口に出さない一言を、俺は心の中で付け加える。



「急に環境が変わって、戸惑うのは当然のことですよ。

 病理の先生がたは、結構オンオフの切り替えがくっきりしているようで、趣味に打ちこまれる方も多いらしいですね。

 羨ましい話です」

「趣味、ですか」



 鳴海はまた難しい顔で考えこむ。

 また余計なことを言ってしまったようだ。



「いえ私も、趣味と言えるのは読書くらいなものですから、

 そういう意味で」

「田口先生は、患者のお話を聞く機会が多いと聞きましたが」

「まぁ、それが今の主な仕事ですけれども」

「高齢の方だけではなく、壮・中年期の患者も?」

「ええ。うちの性質上、患者さんの年齢層は他科に比例しますね。

 さすがに子供は来ません。今のところは、ですが」



 なぜいきなり患者の話を、といぶかしむ間もなく、鳴海が目を逸らしたままで呟く。



「ピークを過ぎた人間は、どうやって残りの人生と折り合いをつけてゆくのでしょうか。

 かつての栄光を失い、これから先、望むべくも無いと知ってしまった者は」



 俺はぎょっとして、手にしていたグラスを取り落としそうになる。



「な、何をおっしゃるんですか。

 鳴海先生はまだまだお若いじゃないですか」

「私の話だなどとは、一言も言ってません。

 患者へのカウンセリングを行う中で、の質問です」



 しまった。

 これでは俺がまるで、鳴海をそう見ていると告白したようなものだ。

 だがこの会話の流れでは、俺でなくたって、鳴海の自嘲気味な発言だと受け取ってしまうだろう。



 それにしたって、俺の平坦な医者人生には、トラブルに巻き込まれた以外の盛り場は無い。

 ピークがあるだけいいじゃないかと毒づきたくなるのを堪え、俺はかつての患者たちの姿を思った。



「そもそも、ピークの定義とはなにかによります」

「まぁ、それぞれの主観でしょうね」



 そこまでわかっているのなら、鳴海に言うことは何もないのだが。

 一応俺は言葉を続けた。



「そうです。

 一元的な価値観に縛られていると、そこから抜け出るのは難しいかもしれません。 

 たとえば若さ、見た目の美しさ、社会的な地位など。

 ですが、人生はもっと重層的で、豊かなものだ。

 経験を得てわかる価値はたくさんありますよ。だから――」

「『だから、人生は素晴らしい』」



 鳴海は杯を傾けつつ、にこりともせずに言葉尻を繋げた。

 その冷ややかな反応に、酒の力を借りて語りに入ったことが、気恥ずかしくなる。



「……まぁ、大体、そんなようなものです。

 もともと私は、大層な治療をしているわけではありません。

 話を聞く中で、患者さんが自分で気づくお手伝いをしているだけです」

「なるほど、正論だ。優等生的なご鞭撻ありがとうございました。

 さすが臨床の先生の言葉は重みが違いますね」



 鳴海がおかしなことを言い出すから、俺はいっしょうけんめい語ったのだ。

 こんな嫌味をぶつけられる筋合いはない。こちらが蕩けるような笑顔を向けてくれたっていいはずだ。

 少々むかついた俺は、スマッシュボールをぶつけてみることにする。



「たとえば、セックスも」



 控えめの声で囁くと、頬杖をついた鳴海が、目線だけをこちらに向ける。



「精力だけがすべてではないことを、鳴海先生ならよくご存知のはずですよね」



 鳴海はああ、という顔をして言った。



「中折れしたことを、そんなに気にしてるんだ」



 鳴海に打ち返されたボールは、俺の顎に見事なクリーンヒットを放った。