白い手が伸びて、サイフォンの下からアルコールランプが引き出された。
考え事に没入していた俺は、鳴海が背後に立っていたことに気づかず、ぎょっとした。
「奥はこんな風になっているんですね。
入り口といい、不思議な造りです。 実に田口先生らしい部屋だな」
休憩室をしげしげと見回し、鳴海はアルコールランプに蓋をして火を消す。
「あの、すみませんが、診察室で待っていていただけますか?
今お持ちしますので」
「ずいぶん濃そうですが」
鳴海の視線の先では、煮詰まりすぎて見るからに苦そうな液体が、やっと下のボールに降りてきていた。
ぼんやりしていたせいで、こだわりの豆を台無しにしてしまった。
「これはもう飲めませんね。今、淹れなおしましょう」
「珈琲はもう結構です。それよりも」
アルコールランプを置いた指先が、そっと白衣の腰に触れてくる。鳴海の顔が近い。
「私には田口先生のお話のほうが興味深いです。
ストレートの男性はどういう時に一線を越えるのでしょうか。
一時の気の迷い? それとも、よほど魅力的なお相手だったのかな」
「いや、ぜんぜん、そんなことは、ないです」
過去は詮索しないはずではなかったのだろうか。
引き離そうと抑えた鳴海の手が俺の指を離れ、白衣の裾を割ってくる。
ズボンの上から股間を探られ、俺はさすがに抵抗した。
「や、やめてください鳴海先生。
大声を出しますよ」
「こんな辺鄙な場所、人が来るとも思えませんが」
いや、それが意外と来たりするのだ。
その時俺が感じていた恐れは、鳴海に襲われることより、
こんな場面にもし兵藤が飛び込んできたら……という生々しい恐怖だった。
あいつのウワサネットワークにかかれば、三時間、いや一時間も掛からずに、
病院中にこの光景が撒き散らされることになる。もちろん、あることないこと尾ひれつきでだ。
「先ほど申し上げたように、私は異性愛者です。
鳴海先生のお相手はできませんよ」
「セクシャリティは田口先生が考えているほど固定的なものではありません。
現に、生粋のストレートと言いながら、男性との交渉を明言されている。
ここには明らかな矛盾があります」
俺はつくづく思った。
あんなこと言うんじゃなかった。
「そのことと、今、鳴海先生と性的交渉を持つことに、何も関係はないじゃないですか」
「私ではご不満ですか?」
意図的に論理をすり替えつつ、鳴海はきれいな顔でにっこりと笑ってみせた。
その笑顔を正視できずに俺は俯いた。
さすが白鳥にナルシストと呼ばれただけはある。
自分によっぽど自信が無いと、こんなセリフはさらりと出てこない。
そりゃあ、白鳥と鳴海とどっちかとセックスしなければ死んでしまう。
という状況になったら、ほとんどの男は鳴海を選ぶだろう。
白鳥を選ぶのは、デブ専か本物かどちらかだ。あるいは両方かもしれない。
「いえ、鳴海先生はおきれいだと思いますよ。
だからどうかご自分を大切になさって、あの、私の股間をまさぐるのはやめてくださ」
説得するための言葉は、ジッパーを降ろす音で遮られた。
床に膝をついた鳴海は、あろうことか俺の一物を取り出し、ためらうことなく口に咥えたのだ。
「あ、ちょ、まっ……いけません鳴海先生。その検体は洗ってません」
机に手をかけたまま、俺は柄にもなくうろたえた。
診療室の突き当たりなので、逃げ場がないのだ。
「構いませんよ。
田口先生は目を瞑って、好きな女性のことでも考えていてください」
「そんな人、いませんよ」
「では、好きなタイプの女性でもなんでも結構です」
鳴海は苛立った表情で吐き捨てると、またそれを口に含む。
「あ」
裏側を根元から横咥えで擦り上げられ、俺はたまらず声を上げそうになった。
ちゅ、と音を立てて裏筋に吸いついた唇が開き、亀頭部分を口に含む。
鳴海の柔らかい舌が、ねっとりと絡みついてくる。
慣れた咥え方で判断がついた。
うまい。尋常じゃないほどにうまい。
先端がとろけそうな感触に、机に預けていた腰がくだけそうになる。
桐生ジュニアの技巧に、俺のジュニアはたちまちのうちに元気になった。
つくづく持ち主の心情を裏切るヤツだ。
「……だめですよ、鳴海先生」
抵抗する声が我ながら弱々しい。
口いっぱいに頬張ったまま、鳴海は俺を見上げ、目だけで笑ってみせた。
鳴海が頭を動かすたびに、上品な唇から、じゅぽ、じゅぽと驚くほど下品な音がこぼれる。
性的なことから無縁のように見えた、あの取り澄ました元・助教授が、跪いて俺に奉仕している。
その視覚が、認めたくはない興奮を煽った。
限界まで俺を頬張り、整った顔がいやらしく歪んでいる。
ぞわぞわとした快感が背筋を走る度に、俺はパーテーションの向こうの扉が気になってしょうがない。
頼むから、頼むから今だけは来てくれるな。兵藤――。
このままでは、兵藤のことを考えながら、鳴海の口の中で達してしまいそうだ。
俺の人生の中でも一、二を争うほどの変則的な射精の予感に、鳴海の頭を引き離そうと、その額に手のひらを当てる。
腰を抜くと、なんとか鳴海の口から引き離すことができた。
半開きの唇と、いきりだったそれとの間を、ねっとりとした唾液の糸が繋いだ。
夢中になっていたおもちゃを引き離された子供のような、不満げなまなざしを鳴海が向ける。
上気したその艶かしい表情を見ていると、なんだかおかしな気分になりそうだ。
「こういうのは性交渉とは言いませんよ。一方的すぎます」
鳴海の口元を親指の腹で拭う。
なおも唇を寄せてくる鳴海は、不思議そうに聞いた。
「こちらは嫌がってないように見受けられます。
このまま、気持ち良くなってはいただけませんか?」
「私だけ気持ち良くなってもしかたないでしょう」
口に出してしまってから、俺は自分の失言に気づいた。
聞きようによっては、誘っているようにも聞こえる。いや、そんなつもりはなかったのだが。
鳴海はやはり誤解したようで、挑発的な笑みを浮かべると、ズボンのベルトに手をかけた。
「では、触っていただけますか」
すでに硬くなった自身を露出させ、表情とは裏腹にそっと俺の手に触れさせてくる。
何もしていないのに興奮しているそれが、なんだかいじらしいものとして俺の目に映った。
こうなれば乗りかかった船だ。俺は腹を据えて鳴海のペニスを握った。
自分以外の男性器を手にするのは初めてだったが、前置きもなしにフェラチオされるよりは抵抗が少なかった。
男にとっては馴染みのある器官だし、女性器よりは扱いに慣れている。
指で緩い輪を作り、マスターベーションの要領で鳴海自身を握りこんだ。
熱い弾力が手のひらから伝わってくる。
ゆるゆると扱きあげると、鳴海は浅いため息をついて、白衣の肩口に顔をうずめた。
頬に触れる柔らかな髪から、せっけんのものとは違うが、いい匂いが漂ってくる。
何かつけているのかもしれない。
こちらの動きに合わせて、唾液にまみれた俺のペニスを、鳴海も逆手に擦ってくる。
窓の外から聞こえる雨の音と、鈍い粘着音だけが部屋に満ちた。
互いの呼吸が浅くなってくる。
「田口先生」
不意に、耳元で声が震えた。
「なんでしょうか」
「キス、してもいいですか」
返事の代わりに、鳴海の顔を上げさせ、ほんの少しだけ唇に触れた。
ぴくんと、手の中で鳴海が応える。
さすがに気恥ずかしいのですぐ離れ、目をそらした。今の俺にできる精一杯だ。
気が済んだかと思えば、鳴海は左手で俺の顎をがっつりと捉え、唇を深く重ねてきた。
歯の隙間から舌が侵入してくる。控えめに応えると、口腔内を思いっきり弄られた。
引きずり出された舌が、ちゅぱちゅぱと吸われる。こぼれた唾液が顎を伝う。
舌先の快楽が、握られっぱなしの股間までダイレクトに響いた。前歯の裏まで舐られ、鳴海はやっと唇を離す。
「せめてこれくらいはしてください」
呼吸困難寸前だった俺は、目を白黒させながら息を整える。
「すみません、不慣れなものでして。
――しかし驚きました。急に大胆な真似をなさるかと思えば、キスは了解を得てからなんですね」
「いえ、オーラルセックスの後でしたので」
そういえばそうだった。
というか、わかっていてやったんだな。コイツは。
左手を口にあて、目を泳がせる俺を、至近距離の鳴海は愉快そうに見つめた。
「ご不快でしたか?」
「……いえ、大丈夫です。気にしてませんよ」
「面白い方ですね。
田口先生って、本当に負けず嫌いなんだな」
負けず嫌いも何も、同じ土俵で鳴海に勝てる気がしない。
さっさと満足して開放してもらうべく、俺はせっせと右手を働かせる。
口調は冷静だが鳴海のそこは、俺に負けず劣らずカウパー氏線液がダダ漏れだった。
荒い呼吸をキスで噛み殺しながら、俺たちは互いの粘膜を擦りあった。
兵藤に踏みこまれる恐怖より、目前の射精欲のほうが確実に勝っていく。
ああ、だめだ。いきそうだ。
「鳴海先生」
「……なんですか」
キスの間を縫って囁くと、鳴海の手が止まる。
ビブラートに震える声もじっとりと濡れていた。
しかしその口調は、邪魔するなと言わんばかりだ。
俺は純朴なノンケを装って質問してみた。
「あ……あの、こういう形式でいいものなのでしょうか」
「なに? 言ってる意味が、わからないんだけど」
「挿入とかは、よろしいんですか?」
言いながら、どこに置けばいいのか手持ち無沙汰気味の左手を、鳴海の腰の辺りに回す。
鳴海は一瞬きょとんとしていたが、すぐに意図がつかめたようで、声を立てて愉快そうに笑った。
「参ったな。
田口先生もつくづくヘテロセクシャルなんですね」
つくづくも何も、こちらは最初からそう言ってるのだ。
笑いの意味が判らずに戸惑う俺に、鳴海は複雑な笑顔を向けた。
「いいでしょう。 私も田口先生が気に入りました。
これを」
言いながら、張り詰めた俺の肉をぎゅっと握り締め、指を離す。
「――じっくり、楽しませていただくことにしましょう」
じっくりも何も、こちらは気を抜くと弾け飛びそうだ。
俺は心の中で田口ジュニアにエールを送りながら、鳴海に引かれるままに黒革の長椅子に倒れこんだ。
天井を眺めていると、ややして、部屋の蛍光灯が全て消された。
「暗すぎて何も見えません」
抗議の声を上げると、ぽっと小さな光が点った。
サイフォンの脇に置かれたままの、アルコールランプの炎にゆらゆらと照らされて、鳴海が俺を見下ろしていた。