別れ際にごねられると困るので、遅い朝食の席で、俺はこちらのスケジュールを予め告げることにした。



「来週末は無理です。

 有働教授の学会準備のお手伝いがあるんです。

 リスクマネジメント委員会の業務も残したままなので、今日は早めに帰らせてください」



 飲みかけの珈琲から視線を上げ、鳴海はにこやかに嫌味を返す。



「さすがにご栄進を重ねると大変ですね。

 田口先生はつくづくトラブルにお強い。

 あの騒動の中で、一人だけステイタスを掴み取ったのですから」

「とんでもない。面倒ごとが増えただけですよ」

「またテレビでお目にかかれるのではないかと、楽しみにしていますよ」



 冗談じゃない。あんなトラブルが二度も三度もあってたまるか。

 出たがりの黒崎教授じゃあるまいし、あんな役回りはもうたくさんだ。



 というか、



「……ご覧になっていたんですか」

「Of course.」



 合同記者会見のテレビ中継に触れられ、俺は気恥ずかしさを隠せなかった。

 あれは桐生の謝罪会見でもある。鳴海が観ていないはずがない。

 それどころか、病院関係者全員の前で悪目立ちそのものだ。


 
「田口先生にはつくづく感謝しています。

 義兄一人では、ああもうまくは立ち回れなかったでしょうね。

 その点田口先生は、本当にお芝居がお上手ですから」

「あまり、いじめないでください」

「いじめるなんて、まさか。

 私は褒めているんですよ」



 澄ました顔で攻撃され、俺がうやむやに相槌を打ち、その話はそれで切り抜けた。

 てっきり鳴海がすねるとばかり思っていた俺は、安堵すると共に、あっさりしたその態度に拍子抜けもしていた。



 その態度が仮初のものだと知るのは、それから間もなく、

 俺が朝の(といっても、時刻は昼を回っていたが)シャワーを浴びた後だった。












「鳴海先生、私のズボンを知りませんか?」

「さぁ? どこかに脱ぎ忘れたのではないでしょうか」



 夏場とはいえ、一泊の旅行だ。

 シャツの替えは持参していたが、ズボンは着の身着のままで来ていた。

 携帯はさすがに脱衣所に持ち込むようにしていたが、

 シャワーから上がると、今度は肝心の着替えが見つからない。



 俺はシャツに下着一枚という間抜けな格好のまま、リビングと寝室を何度も往復した。

 鳴海はその間、長椅子に寝そべったまま学会誌をめくり、動こうとしない。



 新幹線の時間はずらせばいいだけだが、この格好では帰ることができない。

 やがて無為な探索の徒労感ががくりと圧し掛かり、俺は鳴海の対角に座りこんだ。



「…鳴海先生。

 すみませんが、何か履くものをお借りしてもいいですか?」

「もちろんです。

 サイズが合えばいいのですが」



 俺は鳴海の腰をちら見した。



「……やっぱり、結構です」



 鳴海は視線を上げ、焦りで苛立つ俺をどこか愉快そうに眺める。



「そんなに焦らなくてもいいじゃありませんか。

 日は長いんだし」



 いや、日照時間の問題じゃない。

 今日だってここに来るために、どれだけ根回しを重ねたことか。



 深々とため息をつく俺の膝小僧に、鳴海が伸ばした裸足を乗せてくる。

 肌の密着に性的なニュアンスを感じ取った俺は、鳴海の足を丁寧に元の場所に戻した。

 これ以上疲弊させられてはたまらない。



「もう今日は打ち止めです。また今度にしてください」



 俺の拒絶に、鳴海はふて腐れた顔で学会誌を閉じる。



「別にセックスしてくれと言っているわけじゃなし、触れるくらいいいじゃないか」



 そう言って、子供じみた負けん気で、再び足を乗せてくる。

 俺はもう一度それを元の場所に戻した。

 鳴海とのふれあいが、今までスキンシップで終わったためしが無い。

 そもそも時間とズボンを気にする俺に、鳴海といちゃつく余裕があるはずもなかった。



「こちらが嫌がることはしないと、言ったはずですよ」



 きっぱりと言うと、鳴海は長椅子の上で寝返りを打ち、こちらに背を向けてしまう。



「セックス以外で私に触られるのは、そんなに嫌ですか」



 背中越しに返され、さすがに失言だったかもしれないと俺は気づいた。



「いえ、そういうつもりで言ったわけじゃありません。

 ただ今は、時間的にも精神的にも肉体的にも、それほど余裕が無いんです。

 本当なら今週も、当直で来られないはずだったんですよ」

「無理に来てやったんだから、感謝しろ。というわけですね」

「そうではなくて、努力を汲んでいただけると、ありがたいのですが」



 それにしてもズボンはどこなんだ。



 鳴海の声に険が混じるのを感じ取り、俺もつられて苛立ちを募らせた。

 感情に任せ、つい、例の話題を口に出してしまう。



「ところで鳴海先生。桐生先生とコンタクトは取れましたか」



 一度言わなければと考えつつも、切り出すタイミングを計りかね、先延ばしにしていた話だ。 

 その名を出すと、やはり鳴海の肩がぴくりと、震えた。



「……いいえ。

 連絡が、無いものですから」



 細い声で、以前と同じセリフが繰り返される。



「一度鳴海先生のほうから、ご連絡を差し上げてみてはいかがですか。

 きっとお忙しいだけなのではないでしょうか。

 ひょっとすると、避けているのはふりだけで、

 桐生先生も鳴海先生からのご連絡を待っているのかも――」



「うるさいッ」



 急に怒鳴られ、驚いて口を閉じる。

 激昂した鳴海が身を起こし、こちらを睨みつけていた。



「あんたに――あんたに何がわかる。

 義兄さんのことなら、誰よりも俺が一番知っている。わかってる」



 俺が目を逸らしたのは、怒りに燃える目にあてられたからではない。

 震える声音とその言葉が、残る想いを深く深く伝えていた。

 鳴海の心は、未だ桐生の元に残されたままだ。



「ずっと一緒にいたんだ。一緒に過ごした時間なら、僕のほうが姉さんよりずっと長い。

 一番傍にいた。 他の誰よりも、この僕が――」



 支える矜持がそれならば、今の鳴海の処遇は、あまりに哀れだ。



「……差し出がましいことを言ったようですね。申し訳ありません」



 余計なことを言うべきではなかった。

 たかだか二晩寝ただけの俺が、口を挟める関係じゃない。



 俺の謝罪に、鳴海ははっと我に返る。

 激情はすぐに過ぎ去り、その目には悔悟の色が滲んでいた。



「あの――」



 鳴海が何か言いかけたようだが、俺の目はすぐに別のものに釘づけになった。

 鳴海が身を起こした拍子に、背に敷いていたクッションの下から、見覚えのあるズボンがはみ出ていた。

 俺の目線に気づいた鳴海は、慌ててクッションをもふもふと敷き直す。



「………鳴海先生、それは」

「隠していたんじゃありません。

 田口先生のために、プレスして差し上げただけです」

「逆にしわくちゃじゃないですか……」

「別にいいじゃないか。燃やしたわけじゃないんだから」



 その発想が、まず、怖い。

 奪い返そうとすると、鳴海はぎゅっと押さえて離さない。



「返してください。また新幹線に遅れてしまいます」

「……少しこちらに構ってくだされば、すぐに気づけたはずなのに」



 どうやら俺が帰り支度ばかりにかまけていて、鳴海をほったらかしにしたことをスネているようだ。

 服を渡そうとしない鳴海に、俺は喉元まで出かかった言葉を呑みこんだ。

 代わりにうんざりした言葉をぶつける。



「鳴海先生、いい加減にしてください。そんな真似をして、可愛げのある歳じゃないでしょう」

「と、歳は関係ないでしょう。別にかわいこぶっているわけじゃない。

 田口先生も、俺のことを大人気ないと思っているんだろ。 あの役人と一緒で」



 鳴海の頬に、再び怒りが朱を差す。

 どうやら白鳥の言葉を、ずいぶんと根に持っているようだ。



 いい年して子供っぽいだとか大人気ないとか、鳴海はそんなレベルを超越していた。

 知恵と人生経験が無いだけ、子供のほうがまだ扱いやすい。

 募る感情のささくれと、ズボンを履けない苛立ちに、つい俺は声を荒げてしまった。



 「あまり駄々をこねると、もう二度とここへは来ませんよ」



 鳴海の動きが止まった。

 傷ついたように見開かれた目が、かすかに潤むのを認め、俺ははっと息を呑む。


 
「あ……すみま」



 俺の謝罪を遮って、鳴海がズボンを押しつけてきた。



 こちらを振り回す言動に、うっかり白鳥を扱うがごとくきつい言葉をぶつけてしまった。

 あの厄介なロジカルモンスターと違い、鳴海は何を言っても傷つかない鉄面皮ではない。

 それどころか表層的な印象以上に、ナイーヴな一面を持ち合わせている。



「……来週は無理ですが、鳴海先生さえよろしければ、再来週にでも」



 俺と目を合わせないまま、鳴海は黙って頷いた。

 鳴海の憂い顔にうっかり見とれてしまい、それどころじゃないことを思い出す。

 受け取ったズボンを履き、改めて鳴海に約束する。



「時間が無いので見送りは結構です。

 この次は、ゆっくり時間が取れるように努力しますから」



 もう一度、鳴海は小さく頷いた。












 桜宮に着いても、罪悪感と、鳴海へのわだかまりが胸中に渦巻いたままだった。


 服を隠すなんて回りくどい真似をしなくとも、構ってほしいのなら、そう言えばいい。

 少しでも傍にいたいと言ってくれたなら、俺だってもう少しは優しくできたはずだ。


 俺の仕事は、言外のメッセージを汲み取ることではない。

 ただ、聞き遂げることなのだから。






 それに加え俺は、自分の苛立ちの原因を自覚していた。

 決して時間への焦りだけではない。






『でも、あなたが本当に想っているのは、今も桐生先生じゃないですか』






 出かかった言葉を呑みこんだのは、

 おそらくそれが終わりの合図であることを、それぞれが知っていたからだ。