「な、なにやってるんですか。 か、か、返してくださいっ」
個人情報の詰まった機器を奪い取ると、鳴海はふてくされた顔を上げた。
そして恐ろしいほど冷えた声で、逆に訊ね返してくる。
「……すみれさんて、どなたですか」
「え」
「答えてください」
「さ、桜宮病院の先生で……今度うちに研修にいらっしゃるかもしれなくて……。
なぜか私が面倒を見る……じゃなくて、担当するかも、になりまして……」
「へえ?
わざわざ田口先生が、ですか。
それは高階先生のご指示ですか?」
「はぁ、ええ、まぁ。
しかし、それ以上でもそれ以下の関係でもありませんよ」
携帯を覗かれた上に、なにもやましいところの無い俺が、なぜ言い訳をしなければならないのか。
苗字で登録するとややこしい医者一家のため、下の名前で登録していたせいで、鳴海の警戒を喚起したらしい。
鳴海は横目で俺を眺めていたが、ふっ、と鼻で笑ってそっぽを向いた。
「バカ正直な人だ。
こんな凡俗なファーストネーム、飲み屋のマダムとでも誤魔化せたのに」
「やましいところが無いので、ウソなんてつきませんよ。
それよりも人の携帯を勝手に……」
「オーケー。信じましょう。
でもそれよりも」
こちらの怒りなどものともせず、鳴海は再び俺の携帯をもぎ取った。
「ちょ……、返してください!」
発信履歴を勝手に開き、俺の目の前に突きつけてくる。
「≪桐生(ジュニアのほう)≫ってなんですか。
こんなメモリー、あんまりです」
「あ」
そういえば、鳴海から初診の予約をもらう時に連絡先を登録して、そのままだった。
義兄弟の名前が並んでいたほうが、管理しやすいと思ったのだろう。
当然、着信履歴も発信履歴も全部、
≪桐生(ジュニアのほう)≫ ≪桐生(ジュニアのほう)≫ ≪桐生(ジュニアのほう)≫、だ。
「いえ、別に深い意味はありませんよ。
《な行》より《か行》のほうが、呼び出すときに早いので、ついそのまま使用していただけで…」
「人格無視も甚だしい。 すぐに直してください」
「あ、はい。わかりました」
鳴海に携帯を投げ返された俺は、慌てて登録名を変更した。
名前を変えるだけの行為はすぐに済んだ。
≪鳴海先生≫のデジタル表示を一瞥し、首を横に振る。
「フルネームにしてください」
「………これでいいですか?」
「末尾にハートマークとかはつかないんですか?」
なんでそんなものをつけなくちゃならないんだ。
いい加減にしてくれと、叫び出したくなってくる。
「…………特殊記号は、登録できないようですね」
「そうですか。
それならば、それで結構です」
おのれの名前を確認すると、鳴海は満足したらしく、パタパタとスリッパを鳴らしてキッチンへ向かう。
「田口先生、ビールが冷えてますよ」
「ああ、そいつはありがたい」
「瓶と缶、どちらがいいですか」
「じゃあ、缶で」
鳴海が投げてよこしたバドワイザーを受け取り、俺はプルタブを引いた。
海外のビールはあまり嗜まないのだが、風呂上りにはこの軽さが美味に思える。
……いや、ビールごときで懐柔されている場合じゃない。言うべきことは、ちゃんと言わなくては。
「鳴海先生、人の携帯を勝手に見たりしてはだめですよ」
「あんな風に放り出しておくほうが悪い。
ロックもかけずに、無用心すぎる」
鳴海はコロナの瓶にライムを搾り、悪びれもせずにソファに足を伸ばした。
「ちなみに義兄の携帯のロックナンバーは、運転免許証の下4ケタです。
その前は生年月日でした」
「そんな情報、教えられても困ります」
あまりにも捻りがない暗号で、桐生は誰から、何を守ろうとしていたのだろうか。
「しかし僕たちには信頼関係がありますから、別に覗いたりしませんでしたが。
それほどには」
鳴海の距離感の取り方は、どこか決定的な欠陥がある。
もはや何を言うことも諦め、苦い顔でビールを煽る俺に、鳴海はしなだれかかってくる。
「ノープロブレム。
そんなにご不快なら、もう勝手に見たりしません。
それに田口先生には、何もやましいところがないのがよくわかりました」
「そりゃあ、何よりですね」
「私への扱い以外は、ですが」
これ以上、いったい何を望むというのか。
ヘソを曲げた俺に構わず、鳴海はもう別のことに意識が向いたようだ。
「早く約束のものを見せてください」
「約束?」
「写真」
俺は重い腰を上げ、ハンガーにかけられた上着から手帳を取り出す。
間に挟んだ写真だけ取り出すと、手帳は鞄にしまい直した。
「一枚だけですか?」
「他に見当たらなかったんです。
これも、そんなに写りのいいものではないので、持参するかどうか迷いました」
もったいぶるつもりはなかったが、実際そんな見目麗しい写真ではない。
それどころか、輝かしくも見苦しい青春の一ページだ。
裏返して差し出されたそれをひっくり返し、鳴海は予想通り怪訝な顔をした。
「何のパーティー?」
コロナを一口煽り、まじまじと眺める。
その一枚の写真から、どんな情報も漏らさず汲み取ろうとするかのような眼差し。
鳴海が面食らったのも道理で、その写真の中心は、若かりし頃の俺ではない。
同じく満面の笑みで俺の肩を叩いている島津でも無ければ、奥のほうでがっくりとうなだれている速水でも無い。
「医大卒業式直後の徹マンでの、役満記念の写真なんです」
「テツマン?」
「徹夜で、麻雀をしてたんです」
全自動隆盛の今から見れば、アナクロ感さえ漂う手積み卓。
その上に、鮮やかに転がった十四枚のヤオ九牌。
写真の主役は、俺が組み上げて速水が振り込んだ、奇跡の国士無双だった。
※
――舞台は忘れもしない、東城大学付属病院正門前の雀荘『スズメ』。
なけなしの金を賭けた卒業麻雀の最終局面。最下位の俺の手には、カスのような配牌。
九種九牌で流すにはわずかに足りず、チャンタにはバラけすぎていた。
どのみち逆転するには、役満以上の手を上がるしかない。
コト・・・
そのまま初ヅモにイーソウを引いた時、俺はそこに何らかの意思を感じずにはいられなかった。
あがく者の元にだけ舞い降りる、奇跡を呼び込む火食い鳥。
ざわ・・・ ざわ・・・
国士はその独特の手筋ゆえに、捨て牌と場を注意深く見ていれば、気づかれやすい役だ。
オーラスで弾幕を張る余裕などもなく、俺が純チャン狙いなどでないことも、島津あたりは気づいていたようだ。
直撃だけは食らうまいと、無駄ヅモのヤオ牌を囲い込み、早い段階でオリていた。
そして、俺がテンパる直前に、場に三枚目の中が切れた。
パシッ
俺は内心焦った。
四枚目の牌が、王牌の山にでも紛れ込んでいれば役は死ぬ。
それでなくとも濃厚に国士の匂いを醸し出す場に、最後の紅中を差し出す間抜けはまずいないだろう。
徹マンの疲労と、揺ぎ無いトップの座で、よっぽど頭が呆けているのでさえなければ――。
「あ、いらね」
パシッ
舌打ちと共に海底牌を差し出した男に、ため息を吐いたのは俺ではなかった。
「悪いな、速水」
ざわ・・・
「なんだと?」
「その牌だ。
――ロン、国士無双」
「なっ・・・!」
速水の口から、眠気覚ましに舐めていた飴玉がこぼれ落ちた。
パタッ・・・
ざわ・・・
ざわ・・・
ざわ・・・
ざわ・・・
その瞬間、俺は自分の『手』に宿った神に酔いしれた。
外科医には外科の、麻雀には麻雀の神がいるのだ。
もっとも、俺の神が救ったのは尊い人命などではなく、薄い財布となけなしのプライドだけだったのだが――。
※ ここまで
「何を言っているのか、さっぱりわかりません」
「……まぁ、麻雀知らない方には、そうですよね」
歳月の間にわずかに色褪せた、若い自分をしみじみ眺める。
なんせ徹マン明けなのでみんなボロボロだ。
目の下にはクマが浮き出ているし、うっすらと無精ひげまで浮かばせている。
床に転がるビール缶に足を取られながら、それでも速水以外は、みんないい笑顔をしていた。
俺も卓の前で、申し訳なさそうにピースと笑顔を作っている。
「まぁようするに、ポーカーのロイヤルストレートフラッシュで逆転勝ちしたようなものですよ」
「この、意識レベルが疑わしい方は、救急の速水部長ですか?」
「ええ、こっちは放射線科の島津助教授」
「皆さん面影がありますね。それに、とても楽しそうだ」
「この頃はバカばかりやってましたからね。
今はみんな忙しくて、なかなか卓も囲めませんけど」
「僕にも教えてもらえますか」
「え?」
「このゲーム」
「できないこともありませんが、麻雀は、二人だとあまり面白くないんですよ。
面子を集めるところから始めなきゃなりませんね」
それに、うっかり鳴海に麻雀など仕込むと、普通に一発国士とか上がられそうで怖い。
「そうなんですか」
気落ちした鳴海の様子に、ほんのわずかに罪悪感がきしむ。
きっと、やる気の無かった俺とは違い、真面目な学生時代を過ごしてきたのだろう。
……いや、男関係まではどうだか知らないが。
「若い頃の田口先生は、とてもキュートですね」
飽きずに写真を眺めながら、鳴海が言う。
「今は?」
「今もキュートですよ。
この頃はまだ童貞だったんですか?」
なぜそんな、普通なら遠慮するようなことを、ズバズバ訊いてくるのだろうか。コイツは。
「これでも一応、ガールフレンドくらいはいましたよ……」
「Really?」
「文学少女に憧れた時期も、あったんですよ」
「どれくらいお付き合いしていたんですか?」
「さぁ、どうでしょうか。なんせ昔のことなので、あまり覚えていませんし」
言葉を濁す俺に、鳴海は疑わしそうな視線を向けたが、深くは追求してこなかった。
「こちらを、今だけお借りしてもいいですか」
写真を手に、尋ねてくる。
腹いせに燃やすつもりだろうか。
「ええ、構いませんが」
「ありがとう」
鳴海は思い出の一枚を大事そうに抱え、書斎に引っ込んだ。
出てきた時には、B4サイズの紙が一枚増えていた。
写真を取り込んだのち、拡大して印画紙に出力しなおしてきたらしい。
若かりし頃の俺たちと国士無双が、壁に貼られた病理画像の中心に重ね貼りされる。
裏にコルクボードが敷き詰められているらしく、それはぴったりと壁に収まった。
若い頃の俺は、鳴海にとって変異細胞と大体同じくらいにレアな標本のようだ。
うなだれた速水の額を、容赦なく画鋲が刺し貫いてゆく。
何の恨みも無い鳴海元・助教授に、こんなところで額に風穴を開けられているとは、
速水にとっては夢にも思わぬ災難だろう。後で教えてやるべきか俺は迷った。
一連の作業を終えた鳴海は、どこか得意そうに振り返る。
ここは、褒めなきゃいけないところなのか?
「元の写真が、ピンボケなのが残念ですね」
当たり障りの無い感想を述べながら、俺は携帯のロックナンバーを何にするべきか
ため息混じりにぼんやり考えていた。