「兵藤、頼みがあるんだけど」



 あくる日、月曜日午後の不定愁訴外来。

 いつものように珈琲とネタをたかりに来た兵藤に、俺は仕方なく頭を下げた。



 とたんに腰と太腿の筋肉が悲鳴を上げる。

 土日に奮闘しすぎた俺は、残る疲労と酷い筋肉痛に朝から悩まされていた。



「なんだか田口先輩、今日はいつもに増してボロボロですよ。

 急に改まって、どうしたんですか?

 僕と田口先輩の仲じゃないですか。もちろん、聞くだけは聞きますよ」



 聞くだけかよ。と言いそうになるのを堪え、俺はなるたけ申し訳なさそうに切り出した。



「いてて……悪いんだけど今週末の宿直、代わってくれないかな。

 もちろんお前の当番と振り替えでいいからさ」



 案の定、兵藤は唇を尖らせる。



「えー、なんで僕がよりにもよって週末に当直を受け持たなくちゃいけないんですか。

 大体、田口先輩は宿直大好きじゃないですか。

 そういうのは、大好きなほうがやるべきですよ。うん。

 どう考えても田口先生のほうが適任だと思います」



 連続宿直一ヶ月の記録を持つ俺だが、別に宿直大好きというわけではない。

 他に引き受け手がいなかったから、仕方なく受け続けたゆえの記録だ。



「それが、どうしても抜けられない用事ができてさ。

 悪いのはわかってるんだけど、お前くらいしか頼めるヤツがいないんだ。

 頼むよ、兵藤」

「でも、珍しいですよね。

 田口先生が病院の雑用以外で週末が埋まるなんて……

 え、まさか、コレでもできたんですか?」



 兵藤がピンと立てた小指を曲げ伸ばしする。

 無論、その程度の詮索は想定の範囲内だ。

 慌てて否定すれば勘ぐられるだけなので、俺は予め用意した答えを返す。



「女性だったらよかったんだけどね。

 週末に、知り合いの甥っ子の面倒を急に見るハメになっちゃってさ。

 これがまた、やんちゃでワガママで、手がかかってしょうがないんだよ」



 本音交じりの俺のぼやきは、逼迫した切実さが篭っていた。

 まぁ正確には甥ではなく、みんな知っている人の義理の弟さんなわけだが、これくらいの嘘はご愛嬌だろう。



「ですよね。そうですよね。

 まさか田口先生なんかにそんな人がいるなんて、僕もこれっぽっちも思いませんし」



 なぜかほっとした口調で、兵藤はずいぶんな言い草を口にする。



「あら、初耳ね。そんなお知り合いがいたなんて」



 黙っていた藤原さんが脇から口を出し、俺は途端にうろたえてしまう。



「ええ、あの、外国に住んでいる友人でしてね。

 私も滅多に会う機会が無いもので……」

「なるほどね。そんなご無沙汰な方の、わざわざ甥っ子さんの面倒までねえ。

 やんちゃで、ワガママじゃ、田口先生も大変だわね」



 単純な兵藤はごまかせても、こちらは一筋縄ではいかない女郎蜘蛛だ。

 俺は内心ガードを固めたが、幸いなことに、藤原さんはそれ以上追及しては来なかった。

 つけ入る隙も持たせず、兵藤が別の興味に食いついてきたのだ。



「うーん、わかりました。今回は特別に貸しにしておきますよ。

 他ならぬ田口先輩の頼みですからね。貸しですよ、貸し。

 代わりといっちゃなんですが、そろそろアレの本当のとこを教えてくださいよ」

「アレ?」



 今まで代わってやった宿直など、コイツの中では借りにカウントされていないらしい。

 代名詞の意味がわからず問い返す俺に、兵藤はじれったそうに身を乗り出してくる。



「アレと言ったら、『鳴海元・助教授、愚痴外来来訪』の真相に決まってるじゃないですか。

 ひどいですよ、田口先輩。ニアミスだった僕に、不味い珈琲飲ませた上でいい加減なことばかり言って。

 鳴海先生はやっぱり国順の騒ぎに嫌気が差したんですか?

 それともほとぼりを待って、病理学教室に返り咲く気なんですか? その時のポストは?

 高階院長はウワサ通り、現助教授を降格させるおつもりなんですか?


 大体鳴海先生は、なんで田口先輩に相談しに来たんですか?」 



 藤原看護師さえ割り込ませないそのマシンガントークに、俺は内心賛辞と感謝を送った。

 めまぐるしく動くお口が閉じる一瞬のタイミングを見計らい、重々しく切り出す。



「これは、お前にだから話すんだけど――」



 誰にも話さないでくれと前置きした上で、俺は二週に及ぶ鳴海の愚痴を適当にでっち上げた。



『白鳥という意地悪な官僚にいじめ出されたが、不本意な異動で皆さんに申し訳なくて夜も眠れない』



 およそ鳴海が言いそうにないセリフを、兵藤がほぼそのまま垂れ流したのは予想通りだったが、

 めぐりめぐって平島助教授の怒りの矛先が、意地悪官僚・白鳥に向けられるようになるとは、その時は思い及びもしなかった。



 平島助教授の分厚い眼鏡には、鳴海はいったいどんな儚げな研究者として映っていたのだろうか。