目覚めた時も、自分がどこにいるのか一瞬わからなかった。

 だだ広いベッドの上で身を起こし、カーテンの隙間から覗く朝日を眺め、頭を掻きながら記憶を辿る。

 鳴海の部屋に泊まったのだ。

 ということは思い出せたが、俺の横に部屋の主の姿が無い。



「………鳴海先生?」



 裸の上に下着だけ身につけ、生あくびを繰り返しながら寝室の扉を開けると、香ばしい匂いが鼻をついた。



 香ばしい……? いや、なんだか焦げ臭いような……。



 匂いの元を辿るため、寝室を出てリビング右手、キッチンを覗き込む。

 そこではナイトガウン姿の鳴海がしゃがみこみ、何かのマニュアルを熱心に眺めていた。



「鳴海先生、おはようございます」



 声をかけると、鳴海はあでやかな笑顔で振り返り、腕を広げて俺に抱きつく。

 避ける間もなく左右の頬に口づけられ、最後に唇に軽いキス。



「Good morning. よく眠れましたか?」

「いや、グッモーニンはいいんですが、なんかコゲ臭くないですか?」



 鳴海をいなしながらシステムキッチンを見回すと、コンロ下のグリルからもくもくと白い煙が立ち昇っていた。

 なにやら頷いた鳴海は、落ち着いた仕草で火を止め、グリルを引っ張り出す。

 中では元・食パンらしき物体が、真っ黒に焦げ上がっていた。



「炭化してしまいました」

「見れば、わかります」



 コンロ向かいのキッチン棚の上に、見慣れた珈琲サイフォンが置かれていた。

 どうやら鳴海はそれと格闘していたらしい。

 アルコールランプに加え、出しっぱなしの軽量スプーンやこぼれた珈琲豆が散らばり、

 場は、さながら実験途中のようだった。



「どうしたんですか?」



 訊ねると、鳴海は事も無げに答える。



「確か、田口先生は珈琲がお好きでしたよね」



 置かれているサイフォンは、俺が愛用しているものと寸分違わぬ型だった。

 携帯電話ほど種類が豊富な器具では無い。

 ただの偶然だと思いながらも、寝ぼけた頭の奥で、アラームが小さな警戒音を立てる。



 俺の不審に気づき、鳴海は肩を竦めてみせた。



「田口先生の起床に合わせて珈琲を淹れようとしたのですが、どうやら粉が大きかったようです」

「粉が大きい?」



 はじめは鳴海が何を言っているのかさっぱりわからなかった。

 サイフォンの漏斗にぎっしり詰められた豆にぎょっとして、ようやく頭が冴えてくる。



「鳴海先生、珈琲は豆のままじゃ淹れられませんよ。挽かないと」

「ひく?」

「挽いて、粉にするんです」

「粉ならあるけど」



 そう言って、鳴海は収納からネスカフェの瓶を取り出す。

 俺は頭を掻いた。



「いえあの、成分を抽出しやすいように、珈琲豆を細かく粉砕した上で煎じるんです。

 豆を買うときに、お店で挽いてくれたりするものなのですが」

「――なるほど、今のお話で珈琲の理論はよくわかりました。

 しかし豆については、インターネットで購入したものなので、専門的な部分までは思い至りませんでした」



 いや、豆が挽いてあるかどうかなんて、ちっとも専門的なことじゃない。

 一般常識として……と言いかけて、俺は口をつぐんだ。



 大学病院に籍を置いている俺は知っている。

 優秀な研究者が、驚くほど一般的な事柄を知らないということは、実はそれほど珍しい事例ではない。

 40を過ぎてバーゲンセールの存在を知らなかった高名な社会学者など、

 特にその道の権威と呼ばれるような人々ほど、その傾向は顕著なように思える。



 理由は簡単だ。

 お勉強に忙しくて、生きるための日常的なスキルを学ぶ暇が無いのだ。

 逆説的に、日常の瑣末に興味を持てないようなヤツらほど、

 高度な研究に没頭できる知性の持ち主と言えるのかもしれない。


 ただでさえ医者は、その培養過程ゆえに世間知らずの連中が多い。

 言い訳するわけじゃないが、エルメスとグッチの見分けがつかない俺なんて、まだ可愛いほうだ。



「田口先生が次に来る時までには用意しておきますね」



 見るからに気落ちした鳴海は、残った豆をまとめてダストボックスに捨てようとしていた。

 俺は慌ててそれを止める。小さな麻袋に入ったキリマンジャロ。

 いかにも『よくわからないので高い豆を買いました』といったチョイスだが、間違いなく一級品だ。



「挽けば使えますから、捨てなくていいんですよ。

 ミルを買うといいでしょう。挽きたての香りは格別です」

「ミル、ですか」



 きょとんとしたその表情から、鳴海の戸惑いが伝わってくる。

 まるで、医大にいきなり放り込まれ、未知の研究を課せられた中学生のようだ。



「お店が開いたら、二人で買いに行きましょうか」



 安心させるための言葉に、鳴海は嬉しそうに頷いた。



「ところで鳴海先生、新聞はありますか?」



 俺の問いかけに、鳴海は新しいパンを切り出す手を止めて、答える。



「ええ、そこに」



 促された先、ダイニングテーブルの上には、取り出されたばかりの英字新聞が鎮座していた。















 結局、桜宮へは夜の新幹線で戻ることになった。

 帰り支度をする俺に、鳴海が後ろから抱きついてきたのだ。

 別れを惜しむ交歓はねっとりと長引き、さすがになかなか達けない俺は、

 最後にはほとんど搾り取られるようにして吐き出した。



 二日で三回。



 新幹線の座席に沈みこみながら指折り数え、自分がまだまだ若かったことを思い知らされる。

 いや、感嘆すべきは、鳴海の貪欲さかもしれないが。



 見送らなくていいと言ったにも関わらず、鳴海は新幹線の改札までついてきた。

 上りのエスカレーターから振り返ったときも、二人で選んだ手挽きの珈琲ミルを抱え、鳴海はじっとこちらを見続けていた。

 その視線はいつまでも瞼に焼きつき、俺の胸を苦しくさせた。



 紙コップの薄い珈琲を啜りながら、俺は来週のスケジュールを埋めるべく、手帳を開いた。



「しまった」



 思わず声に出してしまい、通路を挟んだ席の女性におかしな目で見られてしまう。