日帰りで桜宮に戻るつもりだったが、酒が入るとどうしても旅の疲れが出てしまい、

 泊まっていけという鳴海の言葉に素直に甘えることにした。

 超がつくほどの高級マンションでの、鳴海の暮らしに興味を覚えたこともある。



 十四帖はあるだろう広いリビングに、センスの無い俺にもわかるモダンな家具。

 カーテンの向こうのベランダからは、30階からの夜景が広がる。

 一見して、満ち足りたエリート独身医師の生活。

 だが、鳴海の部屋は、どこかちぐはぐな印象を受けた。



 マガジンラックには、海外の医学誌や千切り取られた英論文が無造作に放り込まれているだけだし、

 洒落た白い壁には、色鮮やかな絞り染めのような幾何学模様があちこちに貼り付けられている。


 和装柄のアートかと思えば、それらは全て染色された病理画像だった。

 多核化した変異細胞や、何らかのウィルスのような斑点、専門外の俺にはそれだけではわからないものばかり。



「適当にくつろいでいてください」

「あ、はい」



 一見して人体の一部とは判別できない、組織標本画像だからまだマシなのかもしれないが、

 あまり趣味のいいインテリアではないだろう。

 少なくとも俺は、人を死に至らしめる病巣を眺めながら、部屋でくつろぐ趣味は無い。



 鳴海は俺を置いて、扉の向こうへ消えたままだ。

 シャツのボタンを一つ二つ外しながら、Lの字に置かれたソファに座り、落ち着き無く視線をさまよわす。


 違和感の正体にはすぐ気づいた。この部屋からは鳴海の『私』の部分が見えないのだ。

 家具すらも、言葉通り受ければ、鳴海の趣味かどうかわからない。

 医師としてではない、鳴海個人を表すものが、少なくともリビングには見当たらなかった。



『真面目な性分だから、ほうっておくと仕事ばかり』



 先ほど桐生をそう評した言葉、あれは鳴海自身のことを言っているのではないだろうか。



 テレビを点けた途端に鳴海が戻ってきた。潔癖症なのか、シャワーを浴びていたようだ。

 白ワインとグラスを手に、俺の隣に座る。



「ビールは無いんですか?」



 ワインも駄目なわけではないが、夏の夜にはやはりビールが欲しい。

 冷蔵庫に常備されていないかとねだってみたのだが、鳴海はむに、と俺の腹をつまんだ。



「いけません。脂肪になりますよ」



 昼間はファーストフード店に入ろうとしたくせに。

 病理医としてはともかく、鳴海の栄養学観点はどこか狂ってるようだ。



「煙草、吸われるんですか」



 ワイングラスが並んだローテーブルの上、中央に置かれたガラス製の灰皿が、どうもさっきから気に掛かっていた。

 俺の問いに、鳴海は驚いたように目を見開く。



「まさか。 なんのためにニコチンを摂取しなければならないのですか?

 煙草は害悪以外の何ものでもありませんよ。

 アメリカでは、喫煙者は日常的に差別されますし、上流階級層ほど喫煙率は低くなります。

 ただでさえ肺は、大気汚染、ディーゼル車の排ガス、その他化学物質によって日常的に脅威にさらされている臓器です。

 さらにリスクを高めるような行為を認めるわけにはいきません。

 田口先生は継続的な喫煙によって、線維化した肺をご覧になったことはありますか?

 また、呼吸器だけではなく、循環器そのものへのリスクも軽視できません。

 健常者を1とする喫煙者の冠攣縮リスクファクターはおよそ」

「あの、もうそこらへんで許してください。私も煙草は吸いませんので」

「そうですか。それは結構」



 非喫煙者の俺ですら、聞いているうちに胸が苦しくなってくるほどの熱弁だ。



「いえ、灰皿があったもので」

「義兄が置いていったんです。喫煙の悪癖だけは困ったものですね」



 鳴海は目障りだと言わんばかりに、チェストに小さな灰皿をしまう。

 紫煙を揺らめかせていた、繊細な指先を思い出す。

 煙草を憎んでいるくせに、桐生の思い出の品を、鳴海は片付けることができなかったのではないか。

 鳴海がそうしていたように、俺もまた、灰皿に桐生の面影を追った。



 黙って杯を重ねるうちに、どうしてもあの一点が気になってしかたなくなってくる。

 桐生とアロハシャツ、という組み合わせだ。



「フロリダ時代のお写真とかは無いんですか?」



 俺の問いかけに、鳴海はいささか面食らったようだ。



「そんなものが見たいのですか?」



 顎に指を当て、しばらく記憶を辿っていた鳴海は、すっと立ち上がった。

 リビング左手の扉は書斎らしい。すぐに薄いアルバムを手に戻ってくる。



「どうぞお好きに。あまり数はありませんが」



 開いてすぐに、切り取られた青空が目に飛び込んできた。

 そして、透明度の高い海。南国的な椰子の木が、広い道路を縁取るように生えている。

 続いて、病院をバックにしたスタッフらしき人々の集合写真。



 揃いのユニフォームを身にまとった、様々な人種の人々の中で、二人はすぐに見つかった。

 写真左端の近くで、若い桐生が鳴海を支えるようにして立っている。

 長身の桐生は、外国人医師らと並んでも決して見劣りしなかった。



「桐生先生若いなあ」



 俺の感嘆に、鳴海はそっけない返事をよこす。



「それはそうでしょう。昔の写真ですから」



 興味を抑えきれずに、俺はアルバムをめくった。

 病院内のどこか、白衣を着た桐生単身の写真。やはり若い。

 強い目線は今も同じだが、気候のせいか、精悍な体は今より日に焼けており、

 希望と野心と意欲とが全身から満ち溢れていた。



 天井をまだ知らない、向こう見ずなほどの自信。人はそれを若さと呼ぶのだ。

 決して年齢だけを計る物差しではない。



 私服姿の桐生もいたが、鳴海が言うほど垢抜けてないわけではなかった。

 海をバックにした原色のシャツ姿は、確かに医師というよりは釣り番組に出てきそうな雰囲気ではあったが、

 結局、男前は何を着ていたって男前なのだ。

 桐生の恥ずかしい過去でも見れないかと期待していた俺は、変わらぬ華やかさにいささか落胆した。



「ね。酷いでしょう」



 しかし鳴海は嬉しそうだ。

 グラスを片手にうっとりと、若い桐生を目で追っている。



「今と変わらず、かっこいいですね」

「もちろんです。でも、この柄はないですよね」

「私にはわかりかねますが」

「田口先生は、そうでしょうね」

「うわ、鳴海先生も初々しいですね」



 まだ三十前だろうか。鳴海のスナップショットに俺の目は釘付けになった。

 手術衣に似た青いユニフォームの上に白衣を羽織り、肩には聴診器をかけた研修医スタイル。



 新鮮な出で立ちももちろんだが、若い鳴海は、見たこともないような表情で写真に写りこんでいた。

 スターバックスのカップを片手に、含羞と憧れが入り混じった目線が、はにかむようにこちらに向けられている。

 整いすぎた容姿は昔からだが、そのかすかな笑みには、今のような冷たさは感じられなかった。


 確かめるまでもない。

 この時鳴海にカメラを向けていたのは、桐生その人だ。



 ページをめくる指を止めた俺に、鳴海が不満げに尋ねてくる。



「今は?」

「まぁ、初々しくはないですね」

「そうですか」

「鳴海先生は今もおきれいですよ」

「知ってます」

「………………」



 ツーショットも多い。

 グループの中に映りこんでいる時も、桐生は常に鳴海の傍にいた。

 目線を交わし笑いあう若い二人に、他人の俺ですら、このまま時が止まってくれればと、

 願わずにはいられなかった。



 すべては過去の情景であるというのに。



「あれ?」



 アルバムをめくっているうちに、俺はあることに気づいた。



「お姉さんの写真が無いようですが」

「そうですか?」



 この鳴海の姉にして、あの桐生のハートを射止めた女性。

 さすがの俺も、気にならないと言えば嘘になる。



「義兄が持っていったのではないでしょうか。

 私が持っていても仕方ありませんから」



 はたしてそうだろうか。

 未練がましくページをめくる俺から、鳴海はアルバムを取り上げる。



「確かどこかに一枚くらい……。

 あ、ありましたよ」



 それは、どこか船上の風景だった。

 礼服姿の桐生と、風に飛びそうなベールとブーケを押さえている女性。

 白いベールで顔は半ば隠れている。覗く口元だけからでも、鳴海によく似た美貌が伺えた。

 抱き寄せる桐生の、誇らしくも嬉しそうな表情も。



「ヨットパーティーですか。さすがスケールが違いますね」



 義弟といい、つくづく桐生は面食いなのだ。 

 写真から鳴海に視線を戻して、俺は胸を突かれた。



 その情景を見つめる鳴海の眼差し。

 その目からは、ありとあらゆる感情が抜け落ちていた。


 反射的なノスタルジアも、嫉妬も嘆きも、もはや残っていない。

 年月の中で、様々な感情のすべてを燃やし尽くした後に、たった一つ残る静かな表情。

 その凄みに、先日の嘆きが被さる。


 誰かの代わりなど耐えられない――と、鳴海は吐き捨てたのだ。



 穴だらけのアルバムに、俺はようやく、鳴海が嘘をついているのかもしれないと気づき始めていた。






 写真はある時期を境に、急激にその数を減らし始める。

 構図の中央に移った桐生と、少し離れた場所に立つ鳴海の硬い表情から、何が起こったのかはすぐにわかった。

 どこかのテーマパークで、着ぐるみにキスされて迷惑そうな鳴海のカットを最後に、後は空白のページで埋まっていた。



「貴重なものを、ありがとうございました」



 見るべきでは無かったと思いながら、俺は礼と共にページを閉じた。

 無意識のうちに鳴海の右手を目で追ってしまう。

 繊細な手は、俺が見る限り傷跡も残っていない。

 目線を上げると、鳴海はじっとこちらを見ていた。



「田口先生のお若い頃の写真は無いんですか?」

「……探せばどこかにあるかもしれませんが、面白いものではないですよ」

「面白いか面白くないかは私が決めます。こちらだけ恥ずかしい写真を晒すのはフェアではありません」

「別に恥ずかしい写真ではないと思いますが」

「次に来る時に、持ってきてくださいね」

「え。 次ですか?」

「アンフェア」

「………わかりました。まぁ、また次の機会にでも」

「来週です」

「…………………」



 余計な好奇心のせいで気まずい思いをした上に、まんまと次の週末まで埋められてしまった。

 しかし白鳥といい、高階院長といい、その他諸々といい、

 なぜ俺の周囲には、こうも強引なヤツばかりが集まってくるのだろうか。