ふらふらとファーストフード店に入ろうとする鳴海を押しとどめ、俺たちは繁華街まで足を伸ばした。

 コイツの案内は早い段階で諦めて、ガイドブックなどで名の知れた、うどんすきの老舗で遅いランチを摂る。

 鳴海お得意の官僚批判を肴に、日が高いうちから軽く冷酒を傾け、

 性欲と食欲という二大欲求を満たされた俺は、すっかりいい気分になっていた。






「一度来てみたかったんですよ。さすがにおいしかったですね」



 のれんをくぐりながら、俺は満足して胃の辺りをさすった。

 しかし、鳴海は怪訝な表情だ。



「そうですか? 味が薄いように思えましたが」

「……鳴海先生、『満天』のうどんは召し上がったことありますか?」

「東城大学の食堂ですね。一度だけ食べましたが、やはり、味が薄いようでした」

「フロリダには何年いらしたんでしたっけ」

「十年近くになりますが、どうしていきなりそんな話を?」



 可哀想に。

 鳴海の味覚は、長い海外生活ですっかりアメリカンナイズされてしまったようだ。

 ジュニアがこれでは、桐生の舌も推して知るべし、だろう。



「……大丈夫。そのうち、きっとよくなりますよ。気長にいきましょう」

「なぜ、患者を眺めるような目でご覧になるんですか?」



 路上に溢れかえった人ごみの上で、長い日がやっと傾きかけていた。

 ハンカチで汗を拭きながら、俺の少し前を歩く鳴海の細い首を見つめた。



 涼しげな佇まいは、はしたなく足を開いてねだっていた、先ほどの姿と同一人物とはとても思えない。

 上品な顔をしてド淫乱。鳴海のアンバランスさは俺を強く惹きつける。 



 口は悪いが、顔も頭もスタイルもいいし、仕事もできる。

 セックスにはいささか積極的すぎて閉口するが、床上手だし、それに床上手だし。

 これでもし女性だったらと、考えてしまうのも致し方ないことだろう。

 所詮、俺はストレートの男なのだ。 



 そういえば鳴海には、確か姉がいたはず。



 ついそこに考えが及んでしまい、慌てて首を振る。

 それでは桐生と発想が一緒……じゃなくて、

 いくらなんでも鳴海に失礼だ。






 ブランド物らしき仕立てのいいサマージャケットの背に視線を落としながら、

 先ほどから引っかかっていたことを尋ねてみる。



「あの、私はそんなに野暮ったいですかね。

 鳴海先生にお会いするので、これでもおめかししてきたんですが」



 一番くたびれてないシャツを選んだだけでも、俺にとっては立派なお洒落だ。

 鳴海はくるっと振り返り、困惑したような表情をこちらに向けた。



「あまり可愛いことを言わないでください。

 いくら私でも、外で襲うわけにはいきません」



 そっちこそ、往来でそんなことを言わないでほしい。

 慌てて左右を見回したが、すれ違う人々は皆それぞれのおしゃべりに夢中で、ほっと胸を撫で下ろす。

 鳴海は気に留めずにすたすたと歩き続ける。



「義兄も出会った頃は酷かったですよ。

 田口先生にも見せたかったな。あの、派手なアロハシャツ」



 桐生とアロハシャツという、ありえない組み合わせを想像しようとしてみたが、どうもうまくいかない。



「アロハ、ですか」

「ああ見えて頑固だから、面と向かってあれを着ろ、これを着ろと言っても、決して首を縦に振らないんです。

 なので姉と二人がかりで、こっそりワードローブをすり替えて……気づいた時には諦めていたようですがね」

「意外ですね。あの桐生先生が」



 鳴海はフォローするかのように、慌てて付け足す。



「義兄は真面目な性分なので、ほうっておくと仕事ばかりになってしまうんです。

 ただでさえ心臓外科医は多忙ですから」



 桐生について語る鳴海の声は、いつもより明るく弾んでいた。

 ようするにこれは、『あの人は私がいないとだめなんです』といった類の、軽いのろけだ。



「桐生先生はお元気ですかね」



 複雑な気分になった俺は、つられて桐生を案じてしまう。

 途端に鳴海の声は、わずかに哀切を帯びた。



「ええ、元気だとよいのですが」



 そのセリフは、相変わらず義兄弟が断絶したままであることを示していた。

 鳴海の心中を思い、俺は話題を変えることにした。


 
「フロリダ時代の話を聞かせていただけませんか」



 人の流れが絶えることの無い、広い橋の上で鳴海は足を止めた。

 振り返り、やや攻撃的な笑みを浮かべる。

 わざとらしい気遣いが、逆に気に障ったのかもしれない。



「スペイン語がわからなかったばかりに、レイプされそうになった話が聞きたいのですか。

 それとも、姉の男と寝ているところを見つかって、姉に殴られた時の話でしょうか」



 あまりに際どい切り替えしに、俺は二の句がつげなかった。

 その沈黙を曲解したのか、鳴海はなおも畳み掛ける。



「安心してください。HIV、肝炎その他STD、すべて陰性ですから」

「それは、よかったです、ね」



 再び辺りを見回したが、幸いなことに、橋の上で立ち止まったのは俺たちだけだ。



「あの、そんなハードな話題ではなくて、留学時代のお話とかをですね」

「田口先生も医学留学にご興味が?」

「いえ、さすがにこの歳ですから。ただ、どんなもんだろうと思いまして」

「アメリカの医療制度自体に問題は多いですが、

 教育機関としては、研究・臨床共に見習うべきところが多数あります。

 レジデントからアテンディングまで自由に議論できる空気は、

 日本の医局制の現状では決して生まれないものです。

 はっきり言って、医師の待遇も比べ物になりません」

「あちらで成功した先生は、まず日本には帰りたがりませんよね」

「医局に縛られてでもいないければ、そうでしょうね。

 医師だって人間です。

 義兄のように、理想の医療にプライオリティを置く人ばかりではありません」



 日本での助教授の座は、鳴海にとって相当居心地の悪いものだったようだ。 

 この気性ならばさもあらん。教授の椅子など、頼まれたって座りはしなかっただろう。



 それならばなおさら、鳴海がなぜ日本に留まったのか、その理由が気になってくる。



 体験ではなく、システムを饒舌に語っていた鳴海は、ふっと口を閉じた。

 辿る記憶が何かを掘り起こしたのかもしれない。

 橋の欄干に手を乗せ、青みが深まってゆく空を見上げる。



「――あんな空はもう、二度とないでしょうね」



 鳴海が見ているものを、俺も目で追おうとしたが、橋の上から見えるのは夏の夕暮れだけだった。

 異郷ではあるが、どこか変わらない、郷愁を感じさせる日本の空。

 だが、鳴海は、ここではないどこか別の風景を眺めているようだ。

 それはもはや鳴海の胸だけにしか存在しない、置き忘れた過去のどこかなのだろう。



 橋の上にしばらく佇み、俺たちはそれぞれ別の空を眺めていた。



 賑やかな雑踏の中、俺たちの周りをそこだけ切り取ったような、静かな時間が流れた。










 沈黙を崩したのは、無粋な電子音だった。 

 我に返った鳴海が、胸ポケットから携帯を取り出し、発信を確認する。



「病院からですか?」



 宿直が無い代わりに、病理はいつコールがかかるかわからない。

 急な呼び出しかと心配したが、鳴海は出ようともせずに着信音を消した。



「いえ、緊急のものではありません。スタッフのお誘いか何かでしょう。

 私も、田口先生との時間を邪魔されたくありませんので」



 携帯をしまうと、鳴海はシャツの胸口をぱたぱたと煽った。



「それにしても、日本の夏は蒸しますね。

 温度よりも湿度に参ってしまいます」



 青みを帯びた空気の下、鳴海の胸元に浮かぶ汗の珠が、シャツの内側ではらりと流れた。

 俺の目線に気づいたのか、鳴海が意味ありげな笑みを浮かべる。



「……どこかで飲み直そうかとも思いましたが、気が変わりました。

 私の部屋で飲むことにしましょう。

 二人だけで」



 そう囁き、俺の肩を叩いて、半ばまで渡りかけた橋を戻り始める。

 橋の下では淀んだ黒い水面が、派手なイルミネーションを映してたゆたい続けていた。