「最悪だ」
できたての珈琲をカップに注いでいると、ようやく鳴海が口を開いた。
内容的には、事後にあまりぶつけられたい言葉ではない。
とっくに服を着ていた俺は、長椅子のほうへ振り返る。
鳴海はまだうなだれていた。
「……よくあんなことが言えるな。
誰かの身代わりのセックスなんて、僕には耐えられない」
鳴海は続けてぼやきながら、白衣を羽織ったまま長椅子に腰掛ける。
組んだ脚の上に肘を乗せ、顔を手で覆っていた。
最悪、という表現が、行為に直接向けられたものではなかったことに、
俺は少しだけ安堵する。
鳴海自身は見るからに不機嫌だったが。
「あんな男っぷりのいい人の代わりなら、身に余る光栄ってものじゃないですか」
俺は鳴海の前に湯気の立つカップを置く。
これもあらかじめ用意していたウェットティッシュで、脚についた精液を拭ってやろうとすると、
鳴海に取り上げられ、自分で乱暴に拭った。
「あんたなんかが、義兄さんの代わりになれるわけないじゃないか」
鳴海の苛立ちは、俺に、というよりは、自分に向けられたもののように思える。
俺は鳴海の向かいに腰を落とし、珈琲を一口啜って、言った。
「……そうですね。
誰であろうが、誰かの代わりにはなれませんね」
鳴海はしばらく黙っていた。
俺のくたびれた白衣を裸の肩にかけ、頬杖をついて窓のほうを眺めている。
その眼差しからは、怒りはすでに抜け落ちていた。
どれだけ時間が経ったのか、窓の外では既に日が傾いていた。
「田口先生」
目線を逸らしたまま、鳴海がぽつりと、俺に呼びかけた。
「なんでしょう」
「取り乱してしまい、申し訳ありません」
俺は笑った。
「セックスはそういうものじゃありませんか。
取り乱さないなんて、つまらない」
俺の答えに、鳴海もかすかに笑った。
「こちらこそ、差し出がましい真似をしてすみません」
「……田口先生って、意外と」
鳴海はそれ以上は続けずに、差し出した珈琲を啜り、ほっと息をつく。
「………美味しい」
どんな形であれ、性行為の後に雰囲気がギスギスするのは俺としても避けたい。
とりあえず鳴海が落ち着きを取り戻したようで、俺もほっと胸を撫で下ろした。
「こう見えて、珈琲にはうるさいんですよ」
「そのようですね」
珈琲を飲み干してから、鳴海はこちらに背を向けて服を身に着けた。
「田口先生、来週の予約ですが」
ベルトを締めながら、鳴海のほうから切り出す。
すっかりまったりモードに入っていた俺は、慌てて我に返った。
そのことについてこちらからも話があったのだが、またうやむやのうちに裸に剥かれてしまったのだ。
「それがですね、
鳴海先生がうちの外来を受診したことが、学内に知れ渡ってるんですよ」
前回、鳴海が非常階段口から出てくるのを見た看護師がいたのだ。
となると、目的はただ一つ。どん詰まりの不定愁訴外来だ。
元々目立つ存在であった桐生ブラザーズの片割れだ。
ウワサが立ち上り、広がるまでそれほど時間はかからなかった。
「……平島先生なども心配されていて、直接私のところにも来られました。
軽い不眠症だとお伝えしたのですが、返ってご心配を煽ってしまったようで」
「それは、困りましたね」
平島助教授とのやり取りに、思うところがあったのか、鳴海は小さなため息をついた。
それどころか、俺は高階院長にまで呼び出されていた。
『新しい環境があまり馴染まないようでしたら、いつでも戻ってきてくれて構いませんよと、
田口先生のほうからそれとなく伝えてくれませんか』
鳴海への心配を装ってそう言われ、俺は内心肝を冷やしていた。
盗聴器が仕掛けられているとはさすがに思わないが、どこまで見越しての言葉なのか判別しかね、
挙動不審にならないように振舞うのが精一杯だった。
相変わらずあの狸院長だけは、腹の底が窺い知れない。
「鳴海先生にとっても、あれこれ憶測を立てられるのは不本意でしょうし、
私も院内でこのような真似はさすがに気が引けます」
そろそろ潮時ではないかと、鳴海のほうから切り出してくれるのを俺は待った。
「私はホテルなどでも構いませんが」
ところが鳴海は動じない。
あまりにも目的のはっきりした場所を指定され、俺は面食らった。
「ホテル、ですか」
思わず、蓮っ葉通りのいかがわしいご休憩宿を連想してしまい、
ドピンクのベッドの上にしどけなく横たわる鳴海が脳裏に浮かんだ。
想像の中の鳴海はなぜか白衣を着ていた。
「ご迷惑でしょうか」
行為の後に、淋しそうにそう訊かれて、『ご迷惑です』とはなかなか言えない。
俺は言葉に詰まった。
しかし、桜宮市の中で、いったいどこに病院関係者や患者・元患者などの目があるかわからない。
鳴海の来訪を知られた俺は、さすがにガードを固める必要があった。
「いえ、それでしたら、私が鳴海先生のほうに伺いますよ」
「そんな。わざわざ田口先生にご足労いただくわけにはいきません」
「鳴海先生こそ、わざわざ遠くから大変だったでしょう。
私は出不精なので、学会か用事でもないと遠出なんてしませんからね。
小旅行だと思えばちょうどいい。東京とそれほど距離も変わりませんし」
ご迷惑、ご迷惑じゃない。申し訳ない、申し訳なくない。
などの意地の張り合いを繰り返すうちに、切り出した俺としては後には引けなくなってしまう。
「桜宮は、案外狭いですから」
つい口に出してしまうと、そのニュアンスを汲み取った鳴海が、結局折れた。
「――では、来週の週末に」
スケジュールをすり合わせると、鳴海は礼と共に席を立つ。
扉に向かいかけたが、思い出したように足が止まる。
「あの、田口先生」
「はい。なんでしょうか」
「まだ、でしたね。よろしければお好きな場所で処置しますが」
処置と言われ、なんのことだかピンと来なかった。
どうやら、先ほど俺が射精に至らなかったことを鳴海は気にしているようだ。
「いえ、もう落ち着きましたから、大丈夫です」
でも、お好きな場所って、どういう意味だろう。
訊くに訊けない俺を後に残し、鳴海は僅かに微笑んで診療室を後にした。
しかし一人になってから冷静に考えてみると、次の約束まであっさり取り付けてしまったのは、
明らかに欲求不満からくる所為だろう。
二杯目の珈琲を飲みながら、やっぱり抜いてもらえばよかったかもしれないと俺は考えていた。
でも、お好きな場所って、どこだったんだろう。