桐生が患者の死を知ったのは、あくる日に出勤した後だった。
死亡時刻は午前二時三十六分。
報告書には、患者の心停止と、繰り返し試みた救命処置が失敗に終わったことが、鳴海の字で記されてあった。
報告書の傍らに放置されているのは、鳴海のポケベルだ。
持ち主に置き去りにされたことにも気付かず、むなしく呼び出しを続けていた。
院内放送をかけても鳴海は現れず、誰も居場所を知らなかった。
桐生は真っ直ぐに、例の器材倉庫に向かった。
「リョウ?」
扉を開けると、暗い室内に光が差しこむ。
「だから、嫌だったんだ」
やはり、鳴海はそこにいた。
床に散らばった無記入の白いカルテ用紙と、それを切り取った紙片。
その中心に、壁に背をつけて座りこむ、鳴海の姿があった。
「だから、外科医なんて嫌だって言ったんだ」
薄暗い部屋の中で、鳴海は黙々と折鶴を折っていた。
桐生が正面に立っても顔を上げない。
カルテ用紙に折り目をつけて小さな正方形に切り取り、鳴海はただひたすらに折り続けていた。
「目の前で子供が死んでいくのに、何もできないなんて、最悪だ。
どんなに努力しても、もがいても、毎日誰かしら死んでいく」
声が震えている。
開いた扉から差し込む光を避けるように、あるいは桐生の視線から逃れるように、鳴海は膝の間に顔を埋める。
「もう、目の前でひとが死ぬのを見るのは嫌です。
これから先、ずっとこんなことが続くなんて耐えられない。
僕には外科なんて無理です。やめさせてください」
患者の死は、外科医にとって一つの敗北だ。
ショックを受けて当たり前。だが、いちいち打ちのめされていたのでは、臨床医などとても務まらない。
桐生がすべきことは、患者に感情移入しすぎるなと、目の前のインターンを叱り飛ばすことだった。
けれど桐生はそうしなかった。
たった今、気付いたからだ。
この弱さは、鳴海の力だ。
目の前で死に瀕する患者のために、自らを省みずにあの一歩を踏み出させた、いのちへの執着の源だ。
今は頼りなく打ちひしがれていても、いつかきっと、高く飛ぶための翼になる。
「ならば、腕を磨きなさい」
桐生は膝をつき、その肩に掌を置いた。
「人はいつか必ず死ぬ。誰も死からは逃れられない。
だが今ここで、生きたいと願う人も、生きていて欲しいと祈る人もいる」
鳴海が小さくしゃくりあげる。
涙がその顎を伝い、白い紙片に染みを作った。
「そして我々に救えるいのちは必ずある。そう信じなさい。
消えるいのちを惜しむのなら、救えるいのちを救うために、全身全霊をかけなさい」
――その時が来たら話してあげよう。
誰にも語ったことが無い、患者のために流した涙を。
担当患者の初めての死を、自分がどうやって受け入れていったか。
どれだけ打ちのめされたか。捧げた祈りの数を。
だが今の桐生には、鳴海を慰めるための時間も、立ち直りを待つ暇も無かった。
「立ち上がりなさい、リョウ。新しい心臓がこちらに向かっている。
すぐに移植準備に入らなくてはならない。君も助手に入るんだ。
私には、まだ君が必要だ」
なぜなら彼は心臓外科医で、救うべきいのちを知っていたからだ。
「小さい……」
鳴海が呟いた。
視線の先には、取り出されて間もない胡桃大の小さな心臓がある。
数時間前まで鼓動を刻んでいたその臓器は、生理食塩水を張った膿盆の中で、次の持ち主を静かに待ち続けていた。
初めて見る乳児のドナー心臓に、鳴海は驚きを隠せないようだ。
「小さいだろう。このちっぽけにして偉大な臓器が、この子の長い未来を築いてくれる」
レシピエントは一歳六ヶ月の男子。
突発性拡張型心筋症、いつか桐生の胸に抱かれていた赤子だ。
幼い身体は既に人工心肺に繋がれ、小さく開いた胸部が新たな心臓を待ち構えている。
鳴海が鉤引くわずかな隙間から、今や鼓動を止めた心臓が、病み膨れた顔を覗かせていた。
拡大鏡の下で、桐生は目を閉じた。
心臓だけを残し、幼くして失われた小さな生命に束の間の黙祷を捧げた。
左手には第一助手のアテンディング。
鳴海は桐生の向かい、第二助手の位置に立ち、懸命に術野を確保している。
『幼児の体は大人に比べて遥かにデリケートだ。鉤引き一つ取っても、最後まで細心の注意を払ってくれ』
桐生の言葉に、鳴海も頷く。
鉗子で閉鎖された大動脈と肺動脈を、桐生は一気に切断した。
みどり児の血が一閃、舞い散る。