『ドクター、みてみて』
病室を見舞うと、ベッドの上の少年が手を振って迎えてくれた。
先日桐生の裾を引いた黒人の少年だった。
ここ数日は心臓の状態が芳しくなく、ベッドの上での生活を余儀なくされている。
ベッドサイドには鳴海が座り、なにやら忙しそうに手を動かしていた。
『リョウが作ってくれたの。すごいでしょう』
嬉しそうに見せたのは小さな折鶴だ。
カラフルな折り紙など気の利いたものはさすがに無かったらしく、鶴の模様はすべて雑誌のや新聞紙の細かい文字だ。
一枚一枚、わざわざ正方形に切り取ったのだろう。
『日本人なら誰でも折れる』
そっけなく言いながら、鳴海はベッドボードに作りたての一羽を並べる。
鋭角的なシルエットが、いかにも作り手に似て張り詰めていた。
いつぞや泣かせてしまった詫びなのかもしれない。
鳴海らしからぬ素朴な交流に、桐生の口元がわずかにほころぶ。
『ほんとう? ドクターも作れる?』
『もう何年も折ったことはないんだが……』
差し出された紙を、桐生は記憶を頼りに折り始めた。
『ドクター桐生、最初は四角ではなく、三角です』
『わかってる、わかってる。折り目をつけただけだ』
ああでもないこうでもないとさんざ口を出され、ぎこちない一羽が折りあがる。
鳴海のそれと並べると、桐生の折った鶴はどうにもぐったりしていた。
見比べて、少年は笑った。
『ドクターの鳥は、飛ぶのがあまり上手じゃなさそう』
「ペアンとモスキートがあれば、もう少しうまく折れるはずなんだ」
「言いたいことはわかります」
『リョウ、なんでそんなにたくさん作るの?
ママとパパとティト。四つあればいいよ。きっと喜ぶよ』
『ティト?』
『おにいちゃん』
『千羽折ると、この鳥が病気を治してくれるんだよ。日本のおまじない』
『本当? だれかの心臓をもらわなくてもなおるようになる?
でも、千羽はずいぶんと多いからまにあうかな』
少年の言葉が気にかかり、桐生は身を屈めて尋ねる。
『手術が怖い?
でも、病気の心臓を取り替えれば、君は今よりずっと元気になれるんだ』
『だって、ぼくと同じ歳くらいのこどもが死なないと、心臓がもらえないんでしょう。
そうしたらその子のパパとママも毎日泣くよね。ぼくそんなのはいやだな』
桐生は、少年にかける言葉を持ち合わせていなかった。
何を言っても気休めだ。そして、彼はそれを見破るだろう。
黙って頭を撫でていると、鳴海に肩を叩かれた。
「ドクター桐生、少しいいですか?」
カンファレンスルームの扉を閉めた途端、鳴海は思いつめた顔で切り出した。
「左室縮小形成術の適用を考えてみてはいかがでしょうか」
「――やはり、君もそこにたどり着くか」
左室縮小形成術。通称、バチスタ手術。
伸びきった左室心筋の一部を切除し、心臓を文字通り小さく縫い合わせる。
歴史の浅い術式ではあったが、慢性的なドナー心臓不足の現場にとって、心臓の縮小形成という概念は魅力的だった。
一昨年日本で初めてのバチスタ手術が行われたこともあり、桐生も常に意識せざるを得なかった。
先を越された――というのが、正直な感想だ。
もっとも、日本初のバチスタ手術は、術後生存日数わずか十二日という結果に終わったのだが。
「だが、無理だ」
「なぜです?」
「まず、成功率が低い。手術が成功したとしても、術後心不全のリスクも報告されている。
サザンクロス――いや、アメリカ医療界全体が、バチスタ手術に懐疑的な流れでね。
このままだとそう遠くない未来、術式自体が禁止される可能性もある」
「たとえ代替手術だとしても、生存が延びれば、その間に移植心臓が巡ってくるかもしれないじゃないか。
このままではいつ急変が起こるかわからない」
「私もバチスタの提案はしたんだ。
だがアテンディングも、ご家族も首を縦に振らなかった。
リョウ、私たちはレジデントだ。指導医が許可しない手術はできない」
鳴海が拳を握り締める。
「それなら、なぜ心臓が回ってこないんですか?
あの子はもうずっと長い間待っている。待ちくたびれて、諦めかけているじゃないか。
彼だって本当は心臓が欲しいに決まってる。
自分の諦めを納得させるために、あんなことまで言い出して――」
「レシピエントを決めるのは移植コーディネイターであり、私たちじゃない。
君もわかっているだろうが、子供のドナーは本当に少ないんだ」
「わかってます。でも」
「……それに私は、強がりだけで子供があんな言葉を口にするとは思えない」
鳴海は俯いた。
「悔しいのは、君だけじゃないんだ。リョウ」
「――今日はまだ、あの子の家族が面会に来ないんです。
昨日は来ました。でもたぶん今日はもう来ない。
あの子には、他に楽しみなんてないのに」
「………病に向き合い続けるのは、大きなエネルギーが必要なんだ。
それが愛する家族ならなおさらだ。休息が必要なときもある」
「でも、そばにいてあげるべきだ」
「ご家族を責めるのはやめなさい。自分を、責めるのも」
諦めと憤りの混じった眼差しで、鳴海は桐生を見上げた。
それから、背を向ける。
「……もう行きます。今夜も当直なので」
結局は、鳴海の危惧通りになった。
その日の深夜に急変を起こし、千羽の鶴を待たずに少年は死んだ。