有意義な夜だった。桐生はしみじみとそう感じていた。

 夕食会のホストはミヒャエル教授夫妻。

 他に准教授夫妻と、アテンディングがやはり夫妻で出席しており、レジデントは桐生たちだけだった。



 桐生は何より鳴海の言動を心配したが、まるで借りてきた猫のようにおとなしい。

 席を見渡して納得気味に頷き、あとは外科医学論議に優等生的な答えだけを返していた。



 日本の医学事情を披露しながら、桐生はさりげなく鳴海を売り込むことも忘れなかった。

 彼がどんなに優秀か。熱心なインターンであるかを。



 最中に、鳴海がしきりに目配せしてみせたが、熱弁を奮う桐生はまったく気付けなかった。



『君たちの幸運を祈っているよ。

 困難も多いだろうが、何か困ったことがあれば私に相談しなさい』



 別れの握手を交わしたとき、ミヒャエル教授も珍しく柔和な笑みを浮かべていた。

 桐生は感謝の念を込めてその手を強く握った。












 教授宅まで、車を出したのは桐生のほうだ。

 姉が待つアパートメントまで送るべく、一足先に運転席で待っているのだが、いつまで経っても鳴海が戻って来ない。

 教授宅に忘れ物をしたと、思い出したように屋敷に引き返して行ったのだ。



 何本か煙草を消費した後で、やっと鳴海が助手席に滑りこんできた。



「遅いじゃないか、リョウ。いったい何を忘れたんだ?」

「申し訳ありません。

 誤解を解くのにいささか手間取って」

「誤解?」



 鳴海は、怒ったような口ぶりで答える。



「あなたが、僕をパートナーだと教授に伝えた件です」



 ああ、と桐生が煙草を揉み消す。



「私は真剣だよ。教授に伝えたのは早計だったかもしれない。

 だが、ゆくゆくは君と外科チームを組みたいと思っているんだ」

「……………………」

「君の答えを聞かずに先走ってしまったことは謝る。

 だが、君もこの道に進んだ以上は、これからのことを視野に入れて道を選択してゆくべきじゃないか」



 鳴海は深々とため息をついた。



「教授は、私をあなたのライフパートナーだと誤解しているんです」

「ライフパートナー?」



 鳴海は目を泳がせる。適切な対訳を探しているようだ。

 やっと出てきた日本語は、桐生には耳慣れぬ単語だった。



「つまりは、事実婚関係」



 短いクラクションが鳴った。

 ハンドルを構えていた桐生が、その中心に顔をぶつけたのだ。



「発進する前に伝えてよかった」



 長く微妙な沈黙の後、桐生はもう一度煙草を咥え、深々と吸った。



「……文化の差、というやつだな」

「surgeryをつけるか、もしくはそのまま外科チームメイトと告げるのが適切でしたね。

 ドクター、煙草に火を点け忘れています」



 そういえば――、と桐生は思い至る。

 自分たち以外は全員夫婦での出席だった。



 セクシュアリティを誤解されたのは初めての経験だ。

 煙草に火を点しながら、桐生は今日の夕食会の意図を理解した。

 どうりで、しつこく二人の馴れ初めを訊かれたわけだ。



「私は別に気にしませんが、おそらく誤解されたままでは、ドクターが不本意ではないかと考えました。

 プロフェッサーも最終的にはわかってくれましたのでご安心を」

「次からは気をつけよう。すまなかったな、リョウ」

「ノープロブレム。気にしてませんよ」

「私はゲイに見えるか?」

「ストレート男性にしか見えません。私の主観では、ですが」






 恋人も妻もいない独身男が、四六時中同性の後輩といたのでは、誤解を差し招いてもしかたないかもしれない。

 桐生は少しだけ反省した。



 それがきっかけというつもりは無かったが、桐生が鳴海の姉と、本格的に交際を始めたのはそれからまもなくのことだ。











 姉弟をシーフードレストランでのディナーに招いたのは、いつも夕食をご馳走になっているささやかな礼だった。

 ところが、レストランに現れたのは姉だけだった。

 弟は急な当直が入ったと、席に着くなり申し訳なさそうに切り出された。

 わざとらしい鳴海の気遣いに苦笑せざるを得なかったが、二人だけの食事もまた、楽しかった。



「どうして、涼を?」

「あんなに熱心な医師は日本では珍しい。

 外科に必要なのは、情熱と独創性だからね。きっといい外科医になるよ。

 いや、育ててみせる」

「確かに独創的よね。だから日本では無理。

 トラブルばかり起こすから大変だったわ。後始末はいつもわたしの役目」

「トラブル?」

「そうね、大したことじゃないから心配しないで。

 涼くん、根はいい子なのよ」

「そうだね。彼はいい子だ。

 きっと誤解されやすいんだろうね」

「桐生さんと知り合ってから明るくなったのよ、あれでも。

 きっと楽しいのね」

「以前は?」

「本人に訊いてごらんなさい。絶対話さないから」

「そうだろうね」

「――ね、そろそろ涼と病院と心臓以外の話をしましょう。

 ロブスターをさばくのが上手な理由は充分知っているわよ」 





 別れ際に、桐生のほうからくちづけたのも、いつかそうなることがわかっていたからだ。












 化粧を落とした横顔は、ベッドライトの暗い明かりに照らし出され、驚くほど鳴海に似ていた。

 それより桐生を戸惑わせたのは、全ての明かりが消えた後のことだ。

 桐生の肩に額をつけ、とうに眠ったとばかり思っていた姉の、小さな呟き。



「あまり、あの子に深入りしないほうがいいわよ」






 突然のことで意図を尋ね返すこともできず、桐生はただ一人、眠ったふりをし続けていた。