『リョウの様子はどうかね』



 教授室に呼び出された桐生は、てっきり指導への叱責だと身構えていた。

 訊かれるまでもなく、鳴海の勤務態度は相変わらずだ。

 今日は今日とて教授回診の際に、ミヒャエル教授の治療方針に異議を申し立てたのだ。



『プロフェッサー、その治療方針は古い。

 こちらが最新の論文です』




 桐生は肝を冷やした。インターンが教授の方針に反論するなど、日本の常識では考えられないことだ。

 だが、ミヒャエル教授は特に気分を害した様子はなかった。

 鳴海がポケットから出した皺くちゃの論文コピーを受け取り、老眼の入った眼鏡越しにまじまじと眺めた。



『ああ、この論文はまだ読んでなかった。

 ありがとう、後で読んでおこう』










『先ほどは申し訳ありませんでした。リョウにはきつく言い聞かせておきます』

『リョウは優秀なようだね。今年のインターンの中ではトップだと』

『彼には日本での研修経験がありますから。他のインターンより秀でていて当たり前です』

『キョウイチは厳しいね。リョウには特に厳しいようだ』

『はたしてそうでしょうか』


 教授の思惑がわからないまま、マホガニーのデスクの前に桐生は佇む。

 教授室には、膨大な医学書を備えた書棚がいくつもそびえ立っている。


 一番手に取りやすい場所に鎮座しているのは、医学書ではなくヴィクトール・フランクルの

 "Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager"

 邦訳タイトルは“夜と霧”だ。桐生は学生時代に読んだ。



 名前からしてドイツ系のミヒャエル教授が、アウシュビッツの暗黒の記録をどんな感慨で手に取るのか。

 桐生は思い巡らせてみたが、想像もつかない。



『リョウとはずいぶん親しいようだね。プライベートでも』

『ええ、そうですね』



 指摘されるまでもなく、孤立しがちな鳴海の面倒を見るのは、主に桐生の役目となっていた。

 休前日などには、姉と三人で夕食を取る回数も増えていた。

 日本語のみで交わされる団欒は、緊張を強いられる海外生活の中で、今やひと時の安らぎだ。



『リョウを外科に引き入れたのは、確かキョウイチだったね』

『その通りです。説得には手間取りましたが』

『個人的なことを尋ねてもよろしいかな』

『もちろんです』

『リョウは、君のパートナーかい?』



 ミヒャエル教授の慧眼に、桐生は驚きを隠せなかった。



『驚いたな。

 ミヒャエル教授には何もかもお見通しなのですね』



 自分が心臓外科医として独立できた時、自らが育てた鳴海と心臓外科チームを組む――。



 それが桐生が心ひそかに育んでいる願いだ。

 鳴海に厳しいのは、その期待の現われだ。

 なんといっても、鳴海は心臓外科医としては、またスタート地点に立ったばかり。



『ゆくゆくは、そうなって欲しいと願っています。

 リョウも、その覚悟で私を選んでくれたと信じています』

『リョウは不思議な子だ。君が惹かれるのも無理はない』



 教授は、深い眼差しで桐生を見た。

 厳しい賢者の目で射抜かれ、桐生は沈黙する。



『もし、私が君と同じ若さを持っていたら、同じことを考えただろう。

 だが決して、実行には移さなかっただろうね』



 恩師の言わんとすることが、桐生には量れなかった。

 研修プログラムの適正の問題なのかと考え、その問いを口にする前に、別の提案を持ち出された。



『よければ今夜、我が家のディナーに来ないかね。もちろん、リョウと一緒に』



 桐生はもちろん快諾した。ミヒャエル教授らに、鳴海を紹介するまたとないチャンスだった。