「お目にかかれて嬉しいわ。涼ったら、家ではあなたの話ばかりよ」

「やめてよ姉さん」



 その日は珍しく、鳴海のほうからディナーに誘われた。



 鳴海のアパートメントを訪ねると、当たり前のように彼の姉に出迎えられる。

 やや作為的なものを感じはしたが、それは桐生にとっても決して不快なものではなかった。



 姉はやはり、桐生の予想通りに美しかった。

 鳴海に似た端正な美貌に、化粧が華やかさを加えている。上品な快活さからも、育ちのよさが滲み出ていた。



『あんな立派な先生は日本では見たことない。すごく素敵な方だ』って、うるさくて」

「姉さん」

「へえ、それは知らなかった」



 姉弟のやりとりに桐生が笑うと、鳴海に睨まれた。



「なにニヤニヤしているんですか。気味の悪い」

「いや、意外だと思ってね。

 そんな褒め言葉、私にはかけてくれたことがないな、リョウ」



 揶揄すると、鳴海は気まずそうに視線を反らした。

 しっかり者の姉の前では、さすがの鳴海も『弟』なのだと、桐生は微笑ましくなった。

 自分にも、もう少しくだけた表情を見せてくれてもいいのに。



「――では、仕事はずっとこちらで?」

「ええ。せっかくフロリダでのびのび暮らしていたのに、まさか弟が転がりこんでくるなんて。

 この人、朝が早いでしょう? 最初は慣れなくって、寝かせてほしいって毎日大ゲンカ!

 だって四時よ? 朝の四時!」

「姉さんが言い出したんじゃないか。

 どうせ日本には馴染めないだろうから、さっさとこっちへ来いって」

「涼くん、お味噌汁に塩振るのやめて」

「だってこれ味うすい」

「お出汁利いているからそれでいいんです。

 冷蔵庫に味噌入ってるから、自分で取ってくれば?」



 久しぶりの日本食も桐生には嬉しかった。

 ピーマンと人参のきんぴら。鮭の炊きこみご飯。鶏の照り焼き。

 日本食レストランのテンプラやスシではない、普通の家庭料理を食べるのは、渡米してから初めての経験だった。



 姉弟を微笑ましく見守っていた桐生に、鳴海が申し訳なさそうに言う。



「ドクター桐生、姉がうるさくて申し訳ありません。

 こんなだから未だに独り身なんです」

「涼くん、大きなお世話」

「ドクターのことも、連れてきてくれってうるさくて」

「あなたが最初に言い出したんじゃない」

「それは、それは」



 急に自分に話題が及び、桐生は苦笑せざるを得なかった。

 思い出したように、鳴海に話題を振ってごまかす。



「そういうリョウはどうなんだ? ガールフレンドとかはいないのか?

 きっと君はモテるんだろうね」



 姉が、驚いたように弟の顔を見た。

 鳴海は桐生から視線を反らさず、にっこりと笑う。



「そんなヒマが無いことを、ドクターが一番ご存知なのでは?」



 それもそうかと、桐生も笑った。












 外科研修は数ヶ月毎に担当先が替わる。慌しい日々の中ではあっと言う間だ。

 ローテーションが小児心臓外科に移ったとき、鳴海は不本意そうな顔を隠そうともしなかった。



「子供は嫌いだ。

 すぐ泣くし、わがままだし、エゴの塊じゃないか。

 子供の親はヒステリックでもっと嫌いだ」



 幼児に日本語が通じないのをいいことに、検診の最中に鳴海は毒づく。



「そう言うな。彼らから学ぶものは多いぞ、リョウ」



 桐生は赤ん坊を抱きかかえながら、小さな心音を探るべく聴診器を当てていた。

 その間、鳴海はぬいぐるみを振り、桐生の肩越しに赤ん坊の注意を引く係だ。

 なげやりな動かし方が悪いのか、一歳半の赤ん坊は、動物のぬいぐるみより桐生の鼻の穴に指を突っ込むことに夢中だった。



『おはな』

『そうそう、おりこうさんだ。動かないで、くまちゃんを見ているんだよ』

『はな』

『はい、いい子だね。もう終わったよ。よくがんばったね』



 小児用ベッドに戻すと、赤ん坊は大声で泣きながら桐生の鼻に手を伸ばした。

 桐生は看護師が赤ん坊をあやすのを、目を細めてしばらく見守っていた。

 小児病室を出ると、鳴海が桐生の肩越しにハンカチを手渡した。



「ドクター、鼻血が出ています」

「ああ、ありがとう」

「それからこのぬいぐるみは、熊ではなくおそらく猫です」

「そうか、覚えておこう」

「あなたは子供好きのようですね。

 扱いが上手い。いい父親になりそうだ」

「そうなりたいね。子供は好きだよ。彼らは可能性に満ちている。

 だから、時々この仕事が辛くなる」



 渡されたハンカチで鼻を押さえながら、桐生は険しい目をした。



「拡張型心筋症だ。

 移植心臓が回ってこなければ、半年ももたないだろう。

 だが、乳幼児の心臓が回ってくる機会は極めて少ない」

『ねえドクター、日本から来たんでしょう?』



 小さな手が、桐生の白衣の裾を引いた。

 視線を向けると、黒人の少年が携帯ゲーム機を片手に、きらきらした眼差しで桐生たちを見上げている。

 腰から伸びた管が、移動式の点滴スタンドに繋がっていた。



 桐生は脳内のカルテをめくった。

 まだ七歳のこの子も、拡張性心筋症患者だ。

 物心つかぬうちから移植心臓を待ち、何度も入退院を繰り返している。


『本物のピカチュウ見たことある?』

『ピカ……なに?』

『電気ネズミだよ。

 日本のニンテンドーにはたくさんいるんでしょう?』



 なんの話かと戸惑う桐生に、助け舟を出したのは鳴海だった。


『そこの電気マウスは、写真でなら見たことがあるよ』

『本当?

 今、その写真持ってる?』

『残念ながら。

 でも、そこには知り合いがいるから、画像くらいならいつでも送ってもらえる』

『欲しい!

 カトゥーンじゃなくて、ホンモノのピカチュウだね』

『もちろん。

 さぁ、だからベッドに戻って。もうすぐ偉い先生がみんなを診て回るからね』

『約束だよ。忘れないでねドクター』


 鳴海の手のひらに小さな拳をぶつけ、少年は点滴スタンドを押しながら廊下を歩いていく。

 その背中を見送りながら、桐生は鳴海に耳打ちした。



「……あんな安請け合いをして大丈夫か?」

「電気実験を受けているマウスの写真でしょう?

 研究室にメールで送ってもらいますよ。子供は変わったものを欲しがりますね」

「………リョウ、ニンテンドーは確か日本のゲームメーカーだ。

 おそらく君が考えているのは、順天堂大学病院のことじゃないか?」



「あ」



 桐生の指摘に、鳴海は唖然とした。



「そんな違い、僕にわかるわけないじゃないか」

「子供が動物実験の写真を欲しがるわけないだろう」



 鳴海はまじまじと桐生を見つめて、呆然と呟く。



「最悪だ。

 子供に、誤った期待を持たせてしまうなんて……」



 それでも約束だからと桐生の制止を振りほどき、電流実験中マウスの写真を持っていった鳴海は、当然のごとく少年に泣かれた。