漫画はあまり読まないらしい。

 全集を押しつけた時も、大人がコミックを読むということ自体、理解できないといった風情だった。



「ありがとうございました」



 次の日、鳴海は抱えた本の山を、律儀に桐生の部屋へと返しに来た。



「もう、全部読んでしまったのか?」

「はい」



 頼まれもしないのに貸し出したのは、研修が始まるまでの間、外科へのモチベーションをわずかでも上げてもらいたいと考えたからだ。

 名作の感動を共有したいという期待もあった。なんと言っても、彼は外科医にとって永遠のヒーローだ。



 わざわざ日本から取り寄せたのは、手塚治虫のブラックジャック全巻。

 愛蔵版ではなく、年季の入ったチャンピオンコミックス版だ。

 貸し出す前に一通り再読しては、自らの境遇と照らし合わせ、桐生はしみじみ目頭を熱くしていた。



「どうだった?」



 だが桐生の期待とは裏腹に、鳴海は怪訝な顔をしていた。



「このブラックジャックという医師は、ずいぶんと酷いことをしますね」

「無資格なのに執刀しているから? それとも、治療に多額の報酬を請求するからか?」

「慕われていると知りながら、幼児体型で固定した女性を手元に置き続けるなんて、残酷すぎる。

 それに異常だ。

 彼はペドフィリア? 臓器の塊の時点で、標本にするべきだったのでは?」
















O P E N  Y O U R  H E A R T















『アトロピン0.2ミリ追加』



 モニターが、著しいCVP上昇とST値の低下を示す。

 心タンポナーデによる心臓圧迫。ショック状態に陥っているのは誰の目にも明らかだった。



『リョウ、もっとしっかり固定してくれ』



 自分の倍はあろうかという巨体を抱えるべく、鳴海がベッドに乗りあがる。



『穿刺の位置と角度は?』



 桐生に尋ねられた鳴海は、巨体の重みによろめきながら答える。



『Larry点から45度です。しかし、脂肪層のため位置が測れません』



 エコーを確認しながら、桐生は左胸部脇に針を定めた。患者が極度の肥満のため位置を測りにくい。

 心膜穿刺は、心臓を貫くリスクと常に隣りあわせだ。



「見ていなさい、リョウ。

 この位置、この角度だ」



 桐生が日本語で呟き、ゆっくりと針の先端を沈める。

 患者を固定したまま、鳴海は真っ直ぐな視線でそれを見守った。

 横隔膜からしゃくりあげるような音を立て、押さえつけられた患者が胃の中身を吐き出す。

 嘔吐を頭から被り、粘度の高い消化液が鳴海のこめかみを滴る。

 しかし鳴海は腕を緩めない。桐生の手技から、一瞬たりとも目を離そうとはしない。



 膨れ上がった心膜を貫く感触が、桐生の指先から伝わってくる。

 ゆっくりとシリンジを引くと、やや濁りのある淡黄色の心膜液が排出された。

 鮮血が混じっていないことを確認して、桐生は頷く。

 鳴海も頷いたのは、指導への小さな礼だ。



『心膜液を検査部に提出してくれ。急がせるように』



 桐生の指示に、鳴海は恨めしげに額を拭った。



『ドクター桐生。できればその前に、シャワーを浴びさせてください。

 病棟の廊下と、検査技師のためにも』



 緊張の抜けた桐生の嗅覚に、鳴海が全身に浴びた吐瀉物の匂いがやっと届いてくる。



『七分で戻りなさい。すぐに回診が始まる』



 まだ時刻は午前六時前。

 今日も長い一日が始まろうとしていた。


















 鳴海のインターンシップが開始してから、四ヶ月が経とうとしていた。



 USMLEを好成績で合格した鳴海を、ミヒャエル教授の推薦状で後押しし、

 サザンクロスの外科研修プログラムに推挙することは問題ではなかった。

 桐生の懸念は、むしろレジデンシーが始まった後にあった。



 見るからに研究肌の鳴海が、厳しい外科研修生活を本当に乗り越えられるのか。

 サザンクロス心臓疾患専門病院のローテーションは、特に厳しいことで有名だった。

 理想を胸に外科医を志すものですら、その何割かが確実に逃げ出す一年目。



 桐生は知っていた。



 それが間違いなく、地獄の季節だと。