「You may enter the room pleas.」



 寝室のドアに桐生が呼びかけると、すぐに硬いノックの音が応えた。



「Come in, please.」



 扉が開き、白衣姿の鳴海が颯爽と姿を現す。

 聴診器をラフにかけた立ち姿は、いっぱしの外科レジデントに見えなくもない。

 だがその白衣は、鳴海にはいささか大きすぎるようだ。

 余った袖を持て余し、三つ折にしてたくしあげている。

 ぶかぶかの白衣を着た鳴海は、ベッドに横たわる桐生の傍らに立ち、まずは握手のための右手を差し出した。



「Hello Mr.……Mr.……」



 鳴海はそこで口ごもり、怪訝な顔をする。



「……ミスター、誰?」



「ウィリアム、だ。

 バイタルと一緒に扉に貼ってあっただろう」



 小声で返す桐生。

 こちらは、少しでも患者らしく見せるために、Tシャツとハーフパンツというラフな寝巻き姿だ。



「ああ、そうでしたね。

 ハロー、ミスターウィリアム。ナイストゥミーチュー」

「ハロー、ドクター」



 桐生は脇腹と口元を庇いながら、なるべく辛そうに右手を握り返した。

 鳴海はどこか楽しそうに、ぎこちない桐生を見下ろしている。



『ウィリアムさん、まずはあなたのことを聞かせてください』



 まずは減点一。

 桐生は心の中でカウントする。



『その前に、ドクターの名前を教えてください』



 桐生の指摘に、鳴海は首を傾げて微笑む。



『これは失礼。私の名前はDr.リョウ・ナルミ。このクリニックの医師です。

 これからあなたを診察するために、いくつかの質問させてください』

『了解です。ドクターナルミ』


 いささかスムーズすぎたかなと、英語で応じながら桐生は考えていた。

 自分の苦痛を主張することに夢中で、素直に話を聞かない患者はどこにでもいる。

 病院にも、試験会場にも。



『それでは、まずは腹部を診てみましょう』



 問診に続く流れのはずが、鳴海は桐生のTシャツをめくり上げた。

 裸に向かれた桐生の腹部に聴診器を当てながら、ほう、と感心したように目を細める。



『きれいな腹筋ですね。普段からトレーニングを?』



 減点二。

 いくつかの質問はどうした。いや、それよりも聴診の了承を。



『あの、ドクターナルミ。その質問は、診察に関係ありますか?』

『あります。大いに関係がある』



 真面目こくった顔で返されると、桐生はそれ以上何も言えなくなる。

 実際の診療の場ならともかく、患者側に立った際のアドリブなど、急には思いつかない。



『痛むのはこの辺り?』



 鳴海は、ハーフパンツを前触れも無しに引き下ろした。

 際どい部分まで剥き出しになり、桐生は反射的にズボンを押さえる。

 陰毛の生え際をぐっと押され、さすがに咎めようとして桐生は思い出す。

 そう、痛むのは《その辺り》なのだ。



「Ouch!」



 痛みに腹を抱えるふりをしつつ、こっそり履き物の位置を直す。



『耐えられないくらい痛みます。ドクター、早くなんとかしてください!』

『そこが、痛むのですね?』

『とても痛いのです』

『最後にセックスをしたのは?』



 桐生は唖然とした。

 本来ならば、痛みの程度や過去の病歴、または発症時期などを訊ねるべきだ。



 米国の診察では、性生活や過去の異性関係など、私的な領域に踏み込んだ質問が飛び交うのは珍しいことではない。

 だが、質問するからには、明確な理由が必要である。



『ドクターナルミ。なぜ、そのような質問を?』

『緊急を要する診断に必要だからです。

 答えてください。最後に性交渉をしたのはいつ?』



 鳴海の剣幕に押されて、桐生の目が泳ぐ。

 もちろん仮想患者の性生活など想定しているはずもなく、つい、素で答えてしまう。



『……二ヶ月くらい前、だったかな』



 鳴海の眉が、ぴくりと上がる。



『相手は誰? サザンクロスのスタッフ?』

「リョウ、いい加減にしてくれ!」



 さすがにからかわれていることに気づき、桐生はベッドから跳ね起きた。

 同時に、腕時計のストップウォッチを止める。



「頼むから、真面目にやりなさい。もう試験まで日が無いんだ」

「それはこちらのセリフですね、ドクター桐生。

 ただのAppendicitisが試験に出ると思えません」



 鳴海の指摘に怒りを忘れる。

 確かに、桐生は再発性虫垂炎患者になりきったつもりだった。



「大した問診もしてないのに、よくわかったね」

「バイタルの正常さと、あなたの様子で」

「様子?」

「病態表現が過剰です。つまり、わざとらしい」



 もちろん二人は、別に趣味でお医者さんごっこに勤しんでいるわけではない。

 桐生は鳴海を自室に招き、たまの休日を潰してまで、USMLE受験の手助けをしているのだ。

 少なくとも、桐生本人はそのつもりだった。



 鳴海が臨床留学への転向を承諾して、四ヶ月が過ぎていた。

 多忙な研修医生活の合間を縫い、桐生は約束通り鳴海を全力でサポートした。

 自らのUSMLE受験時に使った参考書とノートの山

 ――もちろんあちこちに赤文字のアドバイスと、《
がんばれ》《もう少しだ!》等の手書きメッセージを残し――

 を譲り、ビザの書き換えに備えて、優秀な弁護士も探し出した。



 鳴海もまた、懸命に期待に応えてみせた。

 研究と平行しての試験勉強にかかわらず、基礎医学に関する一次筆記試験では最高得点を叩き出し、桐生を驚かせた。



 問題は、フィラデルフィアで開催される、二次の面接試験だ。

 二次試験では筆記試験のほかに、実際に模擬患者を前にした実技面接試験が行われる。

 受験者は、限られた持ち時間の中で実際に模擬患者を診察し、時間内に診断を終えなければならない。

 通常の模擬診察のほかにも、子供が発熱し、パニックに陥った親だけが来院した場合や、余命わずかな癌患者への告知など、

 現実のモデルケースに沿った形で、実技試験の範囲はバラエティに富んでいた。



 ネイティブイングリッシュ以外の者には、まず言葉の壁が立ちふさがる。

 医者の言うことを聞かない、という点においても、模擬患者は本物そっくりだ。

 ペーパーテストが得意な者が、コミュニケーションスキルが高いとは限らない。

 臨床留学を志す日本人医師らの前に、その実技試験はぶ厚い壁として立ち塞がっていた。



「しかしリョウ、これは病名を当てればいいというものではない。

 何度も言っているが、英語力、患者とのコミュニケーション能力、データを読み解く力、今後の診療方針の通知まで、

 総合的な診察能力を測られる。それを踏まえた上で、もう一度最初から……」

「寮と聞いていたから、どんな狭っ苦しいとこかと思えば、なかなか快適そうですね」



 桐生のアドバイスもどこ吹く風、鳴海の興味は、初めて目にする桐生の寝室に向いているようだ。

 きょろきょろとあちこちを見回し、思いついたように、桐生が腰掛けているベッドのマットをめくり上げている。



「ゆっくり寛ぐ暇は無いからね。

 アメニティをあまり気にしたことはないよ」



 マットの位置を元に戻しながら、次はどんな患者になるべきかと、桐生は考えている。



「そんなに忙しいのに、よく女性を口説くヒマがありましたね。

 ちなみに私は、USMLEに向けて勉強三昧でした。ご参考までに」

「…………だから、こうして、模試を手伝っているんだが」

「それからこの白衣、煙草臭いです」



 羽織った白衣の匂いを嗅ぎ、鳴海が眉をひそめる。

 身につけている聴診器と白衣は、桐生の私物だ。



「不快なら脱いでも構わないよ。

 さぁリョウ、最初からもう一度だ」

「様式を欠いてはますます目的を見失ってしまう。

 ドクター、次はあれをやりましょう。cancerの告知」

「遊びじゃないんだぞ、リョウ」

「さ、不安に怯える患者になりきってください」



 落ちてくる白衣の袖を巻き直し、鳴海は指を鳴らす。

 まるで自分がオーディションを受けているような錯覚に陥り、桐生は深々とため息をついた。

 ベッドの中心に座りなおし、組んだ指に額を乗せ、桐生は大まかな流れをシミュレートした。



 それから、顔を上げる。



 目の前にいるのは自分の主治医。自分は不安を抱える患者。

 症状は胸の奥の痛み。嚥下障害。急激な体重の減少。

 癌ではないかと、疑っている。

 自らにそう言い聞かせた桐生は、鳴海の目を見て疑問符を吐き出す。



『ドクター、真実を教えてください。私の本当の病名はなんですか?』



 鳴海は答えない。

 ただ、静かな憐れみを込めた眼差しを桐生に向けていた。

 何もそんなに芝居がからなくとも……と思いながらも、

 真に迫ったその表情に釣られ、桐生の熱演に自然と力が入る。



『オー、ジーザス。まさかそんな、なんということだ。

 ドクター、どうか本当のことを言ってください。

 私には受け止める覚悟ができています』

『……本当に、お気の毒です』



 白衣の青年は、心から気の毒そうに呟く。



『真実を教えてください。私の病名はなんですか?』



 桐生は鳴海の答えを待った。

 鳴海が神妙な顔で俯く。

 その肩がかすかに震えていることに気づき、桐生の胸に不安が過ぎる。



 ――まさか、感情移入のあまり、本当に泣いているんじゃないだろうな。



「大変申し上げにくいことなのですが……」



 桐生の心配をよそに、鳴海は顔を上げ、震える日本語で答えた。






「お芝居があまりにも下手すぎる。

 役者を目指さなくて、本当によかったですね」






 その両手は口元を抑え、まだ、笑いを堪えていた。












すっかりヘソを曲げてしまった桐生を尻目に、鳴海は単身フィラデルフィアに渡り、一発で合格して帰ってきた。













フ          ォ          ル          ト          ナ          の          指          先