誰もいない病棟の廊下。
椅子に腰掛けた桐生は動けなかった。
患者の家族への報告は済ませた。
術後カルテ、次の手術の準備、病棟業務。
やるべきことは山積みだったが、疲れ切った彼は立ち上がることができない。
うなだれたまま、ぴくりとも動かなかった。
なので、その頭上に影が被さったことにも気づかない。
「あなたのせいじゃない」
おごそかな日本語が聞こえてきても、桐生は顔を上げなかった。
最後に胸を閉じた時、見上げた見学室に彼の姿は無かった。
当然だろう。
手術は結局、七時間もかかったのだ。
ゆっくり目を開けると、先ほどまで無人だった廊下に、長い影が落ちている。
彼があまり足音を立てないことに、桐生は初めて気がついた。
コーヒーの香りに、やっと顔を上げる。
「仕方なかった。
僕も見たからわかります。度重なる手術で癒着は酷いし、組織もとても脆かった。
きっと、誰が執刀しても彼は死んだ」
かすかに湯気の立つ紙コップを控えめに差し出し、鳴海が佇んでいた。
コップを受け取っても、桐生は口をつけようとはしない。
鳴海はやはり静かに、その横に腰掛ける。
新しい心臓は、結局動かなかった。
虚血状態が長すぎたと、途中で執刀を代ったアテンディングは慰めてくれた。
彼は運が悪かった。
摘出した病院が遠方で、時間がかかりすぎたんだ。
キョウイチ、君のせいじゃない。
「僕の止血処置が適切じゃなかったのかもしれない。
患者に負担がかかりすぎて、それで」
「ちょっと黙っていてくれないか」
強い拒絶に、もの言いたげな唇が閉じる。
相手の目を見て、桐生はすぐに後悔した。
鳴海は、桐生を慰めようとしていたのだ。
「――すまない、リョウ。君のせいじゃない。
何度でも言うが、君の処置は的確だった」
ただ、患者は生き返らない。それだけのことだ。
けれど桐生は、ずっと考え続けていた。
もっと剥離がスムーズだったら、出血が少なかったら。
もう少しだけ、自分の指が巧みであったのなら、あるいは――と。
「……君の勇気を無に返してしまって、申し訳なかった」
「あなたのせいじゃない」
誰に言うでもなく、鳴海はもう一度呟いた。
「誰のせいでもない。きっと、こうなる運命だった」
「ああ、そうかもしれない」
そう自らに言い聞かせる二人は、運命などこれっぽっちも信じてはなかった。
この時は、まだ。
「だが、私は運命を変えたかった。」
組んだ指の隙間、桐生の瞳が強い光を戻す。
「彼の死――誰一人の死も無駄にするつもりはない。
そのために、来たんだ。すべてを糧にするために」
独り言のような科白を、鳴海は黙って聞いている。
その視線のあどけなさに、桐生の目が照れを含んで細まった。
「――日本では執刀の機会に全く恵まれなくてね。
サザンクロスに来た時点で、移植手術に関してはほぼ未経験だったんだ。
初めての吻合は、緊張でうまくいかなくて皆に笑われたよ。何度もやり直した」
「日本から来た医師は、みんなそうです。あなただけじゃない」
「英語も、君みたいに流暢じゃなかった。
USMLEだけはなんとか通ったけれど、患者に何度も発音を聞き返されて、
本当にやっていけるのかと不安ばかりだった」
「この辺りはスペイン訛りが強い患者も多い。
ドクターの発音に不明瞭な点はありませんよ」
「努力――したんだ。それこそ、必死でね」
桐生は思い出したように、鳴海のくれたコーヒーに口をつけた。
どれだけ時間が経ったのか、それはとっくに冷めていた。
「渡米は悲願だったんだ。
日本で執刀が回ってくるのを待っていれば、何年かかるかわからない。
どうしても、手術の経験を積みたかった」
自分がなぜ鳴海の転向に執着するのか、桐生はとっくに気づいていた。
日本での臨床の後、米国留学。
自分の選択に迷いは無かったが、実践量の壁は厚かった。
理想を胸に渡米したはずが、実際にはついていくのがやっと。
アメリカに来てもうすぐ十ヶ月、年下のレジデントのオペを横目に、桐生は自分の壁が見え始めていた。
もしも自分が、鳴海の歳の頃から、アメリカに渡っていたらと――。
そんな夢想は、束の間桐生を慰めた。
「最先端の外科技術を持ち帰って、日本の子供たちを救うのが私の夢だ。
高い寄付を募って、米国で心臓移植手術を受けずとも、日本のごく普通の、子供たちの命を救いたい。
――もっとも、君は笑うかもしれないがね」
自嘲気味に呟き、桐生は鳴海を見た。
鳴海も不思議そうに桐生を見ていた。
「今の話はジョークなんですか?」
「そういう意味ではないんだ……」
「小児移植手術が浸透しないのは、日本人の倫理観とそぐわないからでしょう。
自分の子供が病で倒れるまでは、問題を突き詰めようとはしない。
本当に変えなければならないのは、一人の外科医の技量ではありませんよ。
それでも聖者であろうとすれば、医師はいつしか疲弊します」
“何もそんなに気負わなくても”
鳴海の語彙に慣れつつある桐生は、言わんとすることは大体理解できた。
だが同時に、彼の青さもまた、感じていた。
臨床経験の差もあるのだろう。
桐生は、子供の前で必死に医師にすがる親たちに、同じ言葉をぶつけることは到底できない。
「けれど私にも、できることは必ずあるはずだ」
桐生の眼光が鳴海を射抜く。
「そう思わなければ、外科医――いや、医者なんて、やっていけないだろう」
鳴海はふっと、目を伏せた。
「……ドクター桐生、あなたは立派なSurgeonだ。
高い理想を持ち、それに近づくための努力を惜しまない」
「ありがとう。君に言われると少し照れるな」
「だから、思うのです。
何がお気に召したのかは知りませんが、あなたは私を買い被りすぎている。
私があなたの理想に応えられるとは思えない。
いつかきっと、落胆させてしまう」
「違うんだ、リョウ。そんなつもりじゃなかった」
鳴海は沈んだ様子で、空の紙コップをいじっている。
無謀なスカウトが、ずいぶんと鳴海を悩ませていたことを、桐生は初めて思い知り、笑った。
「私は同じ地平を見てくれる、仲間が欲しかっただけなんだ」
“それ”は、その場所は、あまりに遠いから。
「もし、その誰かが君ならと、考えてしまったんだ」
きっと“あなた”は、孤独に耐えられない。
「……勝手な願望を託してしまって、すまなかったね」
桐生の浮かべた笑みをちらりと一瞥し、鳴海は再び視線を膝に落とす。
そしてまた、眉根を寄せて何か考えている。
ずいぶんと子供っぽい表情もするんだなと、桐生は横顔を眺めながら考えていた。
その思考を覗けないのが残念だった。
「コーヒーをありがとう。私は大丈夫だから、君も戻りなさい」
「ドクター桐生。――もしも、私が」
鳴海の語尾はかすれて消え入りそうだ。
桐生はわずかに顔を近づけた。
「もしも私が――あなたの望むような人間でなくとも、
それでも、同じ言葉を、僕にくれますか?」
「同じ言葉?」
「決して見捨てないと」
桐生は頷いた。ほとんど無責任なまでの、力強さで。
「もちろんだ、リョウ。
もし君が外科医を志してくれるなら、どんな弱音を吐いたって、私が引っ張っていく」
睫毛の震えが伝わる距離で、鳴海が顔を上げる。
「たとえ私に、あなたに一生言えない秘密があったとしても?」
返事への期待にじれた桐生は、問いかけの意味を突き詰めようとはしなかった。
最初の釦を一つ、掛け違えたことにも気づけない。
全てを失った頃には、もう、思い出せもしないだろう。
「秘密くらい、誰だって持っている」
その言葉に鳴海は微笑み、空の紙コップを静かに握りつぶす。
くしゃりと乾いたその音が、二人の希望と絶望が入れ違うための、長い道程の最初の合図。
「ついてきてくれるか?」
桐生がもう一度問いかけた。
鳴海は悪戯じみた動作で、人差し指を自分の唇に押し当てた。
「あなたの秘密を一つ、教えてくれたら。
誰にも明かしたことの無いものを」
鳴海の申し出に、桐生は腕を組み考えこむ。
少しの間の後、声を潜めて答えた。
「誰にも言わないと、約束してくれるかな」
「もちろんです」
「……初めて煙草を吸ったのは、高校生の時だ」
「生徒会長の密かな嗜み?」
「どうしてそれを?」
「そんなタイプに見えたから」
笑いを堪える鳴海に、桐生は腕を組んだまま首を傾げる。
「正確に言うと、嗜みにはならなかった。こんな苦しいもの二度と吸うかと」
今度こそ鳴海は吹き出した。
「予想以上につまらない秘密ですが、まぁ、及第点としておきましょう」
「それで、君の秘密は?」
はぐらかすように鳴海は立ち上がり、不敵な笑みを浮かべて桐生を見下ろす。
「せいぜい力になってもらいますよ。ドクター桐生」
差し出された右手を取り、桐生はそのまま鳴海の体を抱きしめた。
「――ありがとう、リョウ」
鳴海は目を閉じ、おずおずとその背に手を回す。
か細いため息は桐生の肩口で塞がり、誰の耳にも届かなかった。