あそこまで激しい抵抗を、したこともされたことも、桐生には無かった。

 親と同じ職業――外科医を目指すことにほぼ躊躇いは無かったし、

 渡米を志した時も、周囲の反対は皆無だった。



 模範的な生き方を煙たがる者も中にはいたが、彼を賞賛し、信頼する人々に比べたら微々たる数だ。

 なので桐生恭一にとって、個人的な提案をあそこまで断られるという経験は、初めてのものだった。



 もちろん落胆もあったが、それ以上に理解することに手間取った。

 過剰なまでな敵意を示す意図もわからない。

 あれでは対人関係において余計なトラブルを呼び込むのではないかと、他人事ながら心配すら覚えてくる。

 わざわざそんな言動を取る理由が、桐生には理解できない。

 鳴海に対する桐生の思索は、最後はおのれに辿りつく。





 結局は、今まで生きていた環境が、自分自身と酷似していただけということなのだろうか、と。






 異国で出逢い、同じく医学を志す、同じ人種である鳴海の中に、

 桐生は圧倒的な他者を初めて見出した。









 鳴海が外科病棟を訪れなくなっても、せわしい時間の合間に、桐生は鳴海のことを考え続けた。

 鳴海の手技を目の前で見てみたいという思いも、それを教え諭す欲望も捨てきれず、


 そういえば――と桐生は思い至る。

 誰かの選択に、これほど執着するのも初めての経験だと。















 一週間ぶりのノックは、前回と打って変わって控えめなものだった。

 ややして研究室の扉が開く。

 出てきた研究員は、見知らぬ男だ。



 白衣を羽織った長身の白人男性が、銀縁眼鏡の奥から桐生を胡散臭そうに眺める。



『また君か。リョウならいないよ』

『どいて』



 その背中をかきわけて、鳴海が顔を出した。

 特に機嫌が悪いようには見えないが、いいわけでもなさそうだ。

 白衣に包まれているのは、いつもの冷ややかな表情だった。



「また来るとは思いませんでしたよ、ドクター桐生。

 それで、今日はどんな説得を思いついたんですか?」

「いや、違うんだ。今日はそうじゃない」



 コーヒーを忘れたな、と桐生は思った。

 そんな余裕も無く、伝達を受けて真っ先に浮かんだのは鳴海の顔だった。



「移植コーディネーターから連絡が入ってね、この後すぐに移植手術に入る。

 4510室の患者だ。例のあの、君が開胸処置をした彼の――」

「Really?」



 桐生の言葉を理解して、鳴海の目が驚いたように見開かれる。

 その後の反応は、桐生にも予測がつかないものだった。



「ああ――よかった、本当によかった。

 こんなに早く心臓が回ってくるなんて、彼は本当にラッキーだ」



 鳴海は嬉しそうに笑み崩れた。

 例の取り繕った笑みではなく、初めて見るむき出しの笑顔が桐生の胸を打つ。



「稀なことにHLAの適合もいい」

「それは素晴らしい。きっとうまくいくでしょう」

「執刀医は私なんだ。それで――リョウ、

 もしよかったら、見に来てくれないか」



 鳴海は真顔に戻り、桐生の顔に複雑な視線を投げた。

 何かを考えているようだ。

 少しの間を置いて、すぐに研究者の顔に戻る。



「それで今日は、あなたの活躍を視認した私が、

 考えを改めて外科医に憧れるという作戦ですか?」



 桐生はむっとして答えた。



「そんなことは考えてない」



 親指と人差し指を顔の高さに持ち上げ、小さな輪を作る。



「………少ししか」



 鳴海は笑ってかぶりを振った。



「わざわざ知らせてくださってありがとうございます。

 見学に行ければいいのですが、あいにく時間が無くて」

「だと思っていたよ。

 君に知らせたかっただけなんだ。気にしないでくれ」



 鳴海の腕を軽く叩き、落胆を見せずに桐生は踵を返した。

 その背に、鳴海が声をぶつける。



「――成功を祈ってます。ドクター桐生」















『補助人工除去、並びに心臓移植手術に入る』



 物々しい日本のチーム移植に比べ、手術室は閑散としたものだった。

 人工呼吸器に繋がれた患者の周囲には麻酔医と看護師数名、

 そして助手のインターンと、左に立つアテンディング。



 桐生は、その中心にいた。

 こちらで心臓移植を行うのは、権威ある教授職などではなく、

 執刀のチャンスを虎視眈々と狙う、彼のような外科研修医だ。



 年間二千例を越える移植手術自体にも、物珍しさなどない。

 頭上の見学室から見下ろす視線は、休憩がてら見物のインターンと、医学生のみ。

 鳴海の多忙さも理解していたので、桐生は気に病むこともなかった。



 報告できたのだから、それでいい。

 鳴海が救った命を、自分がこの手で未来に繋ぐのだと。



 執刀位置に立ち、桐生はもう一度頭上を振りかぶった。






 ちょうどその時、見学室で動く影がいた。

 体格に恵まれた外国人らに囲まれて、どこかまだ、白衣に着られている印象。



 桐生には、それが誰なのかすぐにわかった。

 コーヒーの紙コップを片手に、鳴海は最前列の椅子にふんぞり返り、くたびれた様子で足を組む。



 手術室と見学室の距離を挟んで、ガラス越しに二人の視線が交差する。

 桐生はマスクの下で微笑み、頷いた。

 コーヒーを傾けながら、早く始めろと鳴海が顎をしゃくる。



 手術室にコールが鳴り響き、移植心臓の到着を知らせた。

 桐生は視線を患者に戻す。

 新しい心臓がうまく定着すれば、彼は健康な身体を取り戻せるだろう。

 いつ止まるかわからない心臓と、体から突出するコードを気にせずに、愛する人と抱擁を交わせる。



『メス』



 無影灯の下、桐生の持つ刃が、皮膚の上に置かれた。